それが陰口でないなら何なんだ。キリスト教徒の私がスピリチュアル系の人たちと関係を切ったワケ
こんにちは、かすがです。
私には、「スピリチュアル系に関わっていた時代」というものがあります。
といっても、そこまで深く関わってなかったので、そんなにくわしくはないです。時期も、1年くらいなものです。
(そのときの経緯と印象的な出来事 ↓)
その世界にガッツリ入っていた方からしたら、浅く、知識も薄い方だと思います。
ですが、そんな短い期間でも、それなりに感じたことがあります。
私は、そのスピリチュアル系と関わっていた時は求道中~洗礼後しばらくでした。
彼らは「自分たちの言っていることは宗教ではない」という常とう文句を使い、宗教アレルギーの強い日本で「自分たちは無害だ」というアピールをします。
そして、イエス・キリストや他の神のことも否定せず、むしろアンチ宗教よりもはるかにヨイショします。
私もココロの奥底では「この人たちの言ってることはクリスチャンとして根本的に相いれない」と思っていたハズなのですが、
(これを読んでいるクリスチャンでない方、いらっしゃって不快になったらごめんなさい。あくまでクリスチャンとして考えると全く考え方が違う、ということを伝えたいだけです。どこが違うのかはまたおいおい話して行きたいですが、今回はそれについては深く触れません)
非常に巧妙に私のガードをくぐり抜けてきました。そんな私が
「スピリチュアル系と関わるのをやめようと思った最初のできごと」
について、お話します。
主にはクリスチャンであっても彼らのいう事に興味がある人や、あるいはクリスチャンではなくて、スピリチュアル系が好きな人に向けて書きます。
■ ここで言うスピリチュアル『系』について
ひとくちに『スピリチュアル系』といっても、いろんな分派がありますよね。
私は、いずれにしても「ニューエイジムーブメントの流れ」であることに変わりはないと思っているのですが、一応ここで私が関わった『スピリチュアル系』はどういう人たちだったのか簡単に触れておきます。
私の周りにいたのは、斎藤一人さんの本を読んでる、船井幸雄さんを支持している、「見えない神と交信して、その話を伝える使命を持っている」と言ってそれを仕事にしている、バシャールの話しが好き、レイキをする、青木理子氏に影響を受けている、神田昌典氏や氏のプロデュースするはせくらみゆき氏のオトヒメカードなどを広める、神社の娘でありスピリチュアルなセラピーを行ったりする・・・とっいったメンツでした。
こうやって書くと本当にさまざまな分派があるのですが、それもそのはずです。彼らの多くは「方法は何千通りある。ひとりひとりが自分の知性と直感がおもむくままに。自分自身を信じることで平和が実現する」という主張に立っているからです。
まず、「スピリチュアル」とはなにかを特定しなくてはならない。これには、いくつかの特性がある。
①宗教組織に属することを求めない。完全な個人主義。
②混交主義。いろんな宗教や占い、思想の教えが混ざりに混ざっている。
では、「ひとりひとりが、自分の知性と直感がおもむくままに自分自身を信じる」という人たちの周りで、実際にはどんなことがおきていたのでしょうか。
■ 「ぜんぶOK」なはずなのに陰でサゲあう
「ひとりひとりが、自分の知性と直感がおもむくままに自分自身を信じると、世界が平和になる」と主張する人たち。そんな人たちのなかで、私は何度かこういったことに遭遇しました。
「全部OKなのよ、宇宙は一つだから」みたいなことを言ってる
Aさん。
それに頷いている
Bさん。
のちにBさんと二人きりになると、Bさんは私にこんなことを言う。
「Aさんは、いいんだけどちょっと『気』がよくないときがあるから気を付けて」
かと思えば、今度はAさんが、これとほぼ同じイミのセリフを私に言ってくる。
「ここだけの話し、Bさんは、たまによくないことがありますね。私たちの次元についてこれないかもしれませんね」
。。。。おかしくない??
『え・・・2人とも、公に言ってることは崇高っぽいけど行動ペラないん?やってることそのものは小学校の女子グループでよく見るアレですやん』
■ 何が問題なのか
ここで、「私がこれらの行動をいただけないと思った理由」をカンタンに3つお話します。
(1)なんでもOK、悪や罪と言った考え方はない。であれば、少なくとも同じ主旨のことを提唱している人を下げるような発言はしなくていいはず。単純に矛盾しているとしか思えない。もちろん、クリスチャンとして相いれる考え方ではない。
(2)2人とも、「私」という人間を仲間(ファン、そして客)にしたかったんだと考えると、自然な行動。だとしたら、人間として好きなやり方ではないので、私は近寄らない。
(3)【自分との仲間意識】を作りだし「あなたは私についてくれば、素晴らしい存在になれるのよ」「あなたには話すけど」「あなたならわかると思うけど」的な感情を作ろうとしたのではないかと感じた。選民意識の植え付け、プライドの扇動。マインドコントロールの始まり。単純に気持ち悪いと感じる。教会という『組織』でも、カルト化やマインドコントロールは注意を払いつづけなくてはいけない問題なのに、個人で活動していおり、かつその基準が「自分たちの主観」のみを軸にしているような人たちに信頼がおけるはずもない。
既存の宗教と比較すると、違いは明らかだ。伝統的な宗教は「組織」を必ず形成し、教えが混ざることを非常に嫌い、純粋であることを目指す。そして、信仰や生活について学ぶ源泉である「経典」や「聖典」を持つ。
この比較が明らかにしているのは、スピリチュアルとは
①まず宗教から「ビジネスのうえでめんどくさい組織的な部分」を完全脱色し、
②あらゆる宗教思想から主観的に「いいとこ取り」をし、
③「消費者」としてのスピリチュアル・ファンに本を書いたり、なんらかのサービスを提供したりしてお金を儲ける「ビジネス」である、ということだ。一言でいって、「エセ宗教」なのである。
こうしたことの結果はどうなのか。
宗教は一般論として、本当の魂の平和を与えるものだ。スピリチュアルは、偽物宗教だから、これの与える平和もまた偽物とならざるをえない。
重病にかかっている人がいるとする。医者にかかって手術しないといけない。その人に、「これを飲めば治りますよ」と言って、近所の薬局で買ってきた風邪薬やサプリメントを与え続ければどうなるか。
もしくは、のどが渇いている人に、塩水を与え続ければどうなるか。
魂の平和は、本物の宗教でないと決して与えられない。スピリチュアルが与える平安は極めて一時的なもので、飲んでも飲んでも治らない偽りの薬に過ぎない。
本当に救いを求めている人に対して、救いにならない偽物を提供し続ける。これが問題点だ。
■ 「宗教ではない」が常とう句のため、分が悪い
コワーキングスペースでは、一応、宗教の話しは禁止でした。スピリチュアル系は自称「宗教ではない」わけですから、私が自分の信仰の話をしてその立場を主張するには分が悪すぎますし、そもそも私はリアルタイムに自分の意見を主張できるタイプではないので(だからこうやってブログで書くしかないっちゅう・・・)、もうその場所とも、そこで知り合った人ともかかわるのをやめようと思いました。
(あと、単純に「スピリチュアルを商売にしている人の比率が高すぎて得られるモノより失うモノの方がデカイと判断した」からです)
もしかしたら、そのとき関わった人たちには「かすがちゃん?ああ、残念だけど『気』が悪くなってしまって、そまっちゃったわね」とか「私たちの次元についてこれなかったのね」とか言われてるかもしれませんね。
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