存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

岡山英雄「天国と極楽」。元寺娘で現クリスチャンがおススメするキリスト教と浄土(真)宗の違い入門

こんにちは、かすがです。

 

 

みなさんは、「天国と」と聞くと「地獄」と続けたくなりませんか?


そして私は、「地獄」と聞くと鬼灯の冷徹のOPや

youtu.be


星野源の「地獄でなぜ悪い」かが思い浮かびます。

youtu.be

 

 

・・・ハナシがズレました。

今日はですね「天国と地獄」ならぬ、「天国と極楽」――――ひいては「キリスト教仏教」の違いについてお話ししたく、PCを開きました。

 

 

ご存知の方もいっらっしゃるかと思いますが、私は元・寺の娘で現クリスチャンであります。そういうこともあってか、「仏教ともキリスト教の比較」というものにものすごーく興味があります。

 

過去にこんな記事も書きました。↓↓

 

kasuga-1221.hatenablog.com

 

別ブログ↓↓

www.100grandma.com

 

現状クリスチャンなわけですから、無宗教やら仏教やら神道やらユダヤ教からイスラム教やらエホバの証人やらからクリスチャンになった、という人の話はまぁまぁ聞くのですが、「なんでもないトコロから仏教徒になった」という人の話はあんまり聞いたことがなかったのですね。

 

(現状、日本のお寺は世襲制がほとんどですから、そういう人は確信があって信仰しているわけではないのが実際です・・・)

 

 

そんなある日、SNSで「在家(お寺の子でない一般家庭の生まれ)から浄土真宗を信じて得度した」という、同世代の女の子と話す機会に恵まれました。

 


ものすごく珍しい人と出会った喜びから、私はその人に「どうして浄土真宗を信仰するに至ったのか」という話しを聞いてみたくなりました。

 

 

そして、その子の話を聞けば聞くほど、浄土真宗キリスト教の仕組みがあまりにも似ていることにおどろいたのでした。

 


そこで改めて思ったこと。それが「どうしてこの子は阿弥陀仏を信じ、私はイエスを信じるんだろう」ということでした。

 

 

今日は、「天国と極楽」の違いを中心に、キリスト教仏教の違いを書き記した本のご紹介をしながら、カンタンにキリスト教仏教」(主に浄土宗・浄土真宗)の共通点と違いに触れていきたいと思います。



 

■ 浄土宗とキリスト教の共通点その1:「罪」と「他力救済」

浄土(真)宗とキリスト教は、そもそもの構造がとても似ています。

 

「人間には罪があり、自分自身ではそれをどうすることもできない。自力ではなく、ただ『救い主の恵み』によって、救われることができる。救われる方法は、救い主をただ信じることである」

 

というような、教理の骨組に共通点が多くあるのです。

 

まず、共通点のひとつである「罪」の概念について触れたいと思います。

 

 

キリスト教では、「義人はいない、一人もいない」という言葉で、全ての人間には罪があり善人にはなれないということを伝えています。

 

浄土(真)宗もまた、親鸞聖人の「罪悪深重」という言葉で人間の罪の性質を人間に伝えているようです。

 

僕たちは、心の中は本当は罪だらけのくせに、表に出さずにすましてる。もしも表に出ていれば直すこともできるけど、出てこないばっかりに、なかなか直せない。いつまでもいつまでも、この罪をぶら下げて生きている。だから罪が深く重くなる。聖人は「罪悪深重」という言葉で、僕たちの逃げられない現実を教えてくださったんだ。(浄土真宗本願寺派 教念寺HPより引用)

 


このような人間の罪深さへの鋭い認識は、浄土教に共通しています。浄土教によれば、人ははかりしれないほど罪深いので、誰も自分の手で自らを救うことができません。

 


そして、岡山先生は浄土宗の開祖である「法然」についてもこう綴っています。


法然
法然は、鎌倉時代に浄土宗を開き、日本仏教を根源的に変革した人ですが、このような悪を直視し、真剣に救いを求めました。
どのような修行や、経典の学びによっても魂の平安を得られず、「なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひ」ているときに、阿弥陀仏による極楽浄土への往生、念仏による救いにとらえられ、生涯ただこの一事にかけて布教に励みました。




自らのうちに何一つ良いものがない、罪と汚れしかないと知ったとき、そのような者をなお愛し、あわれんで救い取ってくださる神・仏の恵みにすべてをゆだねて生きていくことができます。この点でキリスト教浄土教は共通しています。
(「天国と極楽」より引用)

 

これは、人間を自然の一部と考える神道アニミズム?)や、修行による自力救済の可能性を説くそのほかの仏教諸派との決定的な違いだと思われます。

 

 

■ 浄土宗とキリスト教の共通点その2:「信じるのみで救われる」 

キリスト教では、あわれみによって罪深い人間を救い取られる神への信仰、ただそれだけが求められています。
人は、行いではなく、ただキリストを信じる信仰によって、救われ(ローマ人への手紙3:28-ガラテヤ人への手紙2:16)天国へ招き入れられます。


浄土教においても、極楽への道はただ阿弥陀仏の慈悲によって開かれるという点が、キリスト教に似ています。

 

 

これも、浄土(真)宗とキリスト教における考え方の大きな共通点だと思います。

 

■ 浄土宗とキリスト教の共通点のような相違点のようなところ:「救い主の苦しみ」

実は、イエスが神の子羊として屠られることは旧約聖書で何百年も前に預言されていました。(イザヤ53章など)

 

イエスの受難は、二度と繰り返されることのないただ一度の苦しみであり、それこそがキリスト教の核心です。


浄土教において、イエスの受難に匹敵するのは、法蔵菩薩の受苦です。


法蔵菩薩は人々の苦しみに深く同情し、衆生の救いのためにはどんな苦しみも忍耐して悟りをひらくと誓願を立てました。この誓願には、人々のために身をささげるという決意が示されており、それを「代受苦」と呼ぶこともできます。

 

「人間の罪を救うために、一人の人が苦難を背負った」ーーーこの考え方もまさしく、キリスト教と浄土(真)宗における大きな共通点です。

ですが、ここでは「共通していない点」があることも岡山先生は述べられています。

 

 

しかし、法蔵菩薩の苦しみは、通常の菩薩8修行者)の苦しみと異なるものではありません。

 

すべての菩薩は悟りを開くために、修行をします。

  

キリストの受難は、菩薩の受苦とは次元の異なる独自なものです。「キリスト教における身代わり贖罪は、キリスト独りによってなされるのであるが、仏教においては、いかなる菩薩においてもなされうる」からです。

 

 ということで、どうも「イエスと法蔵菩薩の受難」をまったく同じものとして受け止めるのはムリがありそうです。

 

多くの日本人や、これを読んでいるあなたは、ここまでのハナシを聞いて

「ここまで考え方が共通してるならどっちでもいいんじゃないの?」

「宗教の行き着くところはみんな同じでしょ。同じ目的のために在るものでしょ」

と思われるかもしれません。


■ 浄土宗とキリスト教の相違点 :「天国と極楽」

「行き着くところは同じ」という考え方が必ずしもそうでないことを記すのが、この本のキモである「天国と極楽」の違いを知ることなのではないかな、と思いました。

 

イエスは、地上の労苦に疲れ果てた物語たちに、休息を与えてくださいます。(中略)

 

そのイエスが、十字架で死んで、復活し、天の国で私たちを待っておられます。

 

主にあって死ぬ者は、主の待つ国へ迎え入れられ、そこで永遠の安息を得ます。

 


これに対し、極楽は安息のためにあるのではありません。極楽とは、そこで修行して悟りを得るところです。

 

 


[これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏の悟りを敬い求め・・・奥深い教えを聞いてためらうことなく、常によく修行する。(大経三十)〕

 

というように、カンタンに「天国と極楽」の違いを説明するならば、

 

「天国」→主の国。安息、休息所

「極楽」→修行して悟りを得るところ


という違いがありそうなのです。このちがいは「目指すところは同じ」という言葉で片付けてしまっていいものではないはずです。


■ 浄土宗とキリスト教の決定的な違い:救い主の実在性

 

ところで釈迦の死は、前節で述べたキリストの死と復活とどのように異なるのでしょうか。釈迦は、修行の後、悟りを開いてブッダ(覚者)となりましたが、死を免れたわけではありません。

 

死後はどうなるのか、永遠の霊魂は存在するのかなどの疑問については、釈迦は明確な回答を与えませんでした。釈迦の教えの根本は、別の世界に移って永遠に生きることではなく、今この生において、真の知恵によって一切の空無性を悟って正しく生きることです。

 

救済者自らが死んで復活した点に、キリスト教の独自性があることはこの点からも明確です。

 

 

そして、ここでイエスの歴史的な実在性と、その存在と死と復活が預言されていたことをあげて、その対比として阿弥陀仏の実在性にうちて触れています。

釈迦は紀元前5世紀ごろに実在した歴史上の人物ですが、法蔵菩薩阿弥陀仏)は、はるか昔、「十劫」も前に、悟りを開いて阿弥陀如来となったと記されています。(大経十、小経四)
すなわち、浄土教の根本仏である阿弥陀は釈迦とは異なり、歴史を超えた神話的な人物なのです。

 

 

 

イエス・キリスト」という人物が、歴史上実在した人物であり、その存在は遠い過去から預言されていて、十字架の上に苦しみを受けて死んだものの復活した(可能性が限りなく高い)のに対して、


阿弥陀如来」という存在、その救いの達成の輪郭は、ややぼやけているように思えなくもありません。

 

冒頭で触れた「在家から浄土真宗を信じた女の子」も、話しているところを見ると、〈阿弥陀如来の実在性〉については複雑な思いを抱いているようでした。


■ 仏教からキリスト教へ、キリスト教から仏教へ変わった人たち

先に紹介もしましたが、私は今まで尼僧からキリスト者になった藤井圭子先生や、

 

kasuga-1221.hatenablog.com

天台宗の僧侶から牧師になった松岡広和先生

 

 

というような方の話し知っていました。ですが、「浄土(真)宗からキリスト者になった人の話し」は知らず、『もしかしていないのかもしれない・・・。浄土(真)宗を信じている人にキリスト教の話しをするのは、仏教の他のどの派の人に話をするよりも難しいのかもしれない・・・』と思っていました。

 

ですが、安心しました。この本の最期の方に、浄土(真)宗からキリスト教に変わった人が2名ほど紹介されています。

一人が、亀谷凌雲 - Wikipediaさん。

 

長い長い間救い主阿弥陀如来に会いたくてたまらなかったのが、〈キリストが〕今やはるかより以上の栄光の姿をもって、・・・・・・・私に臨んでくださったのである。これこそが真の如来ではないか。(『仏教からキリスト教へ』)

 そしてもう一人が、升﨑外彦(LVJCC Blog ぞうり履きの伝道者 升崎外彦)さん。

 

このお二人の経歴がカンタンに紹介されています。ちゃんといらっしゃるんですね;;安心しました^^;

 

 

「自分の畑のモノばっかり紹介して、そんなんフェアじゃない」と思われそうな気もするので、「キリスト教から浄土真宗になった人物」というのも紹介しておこうかなと思います。

 

・・・と思ったのになんだかURL見つからないです;;以前ネットで見たような気がするんですが;;すみません、もしご存知の方がいたら教えてください;;

 

 

ただし、私が昔ネットでみた方はたしか「カトリックから浄土真宗にかわった」とおっしゃっていたような気がするので、そこはまだツッコミの余地がありそうなのです。

 

カトリックは、行いによる救いを重んじる傾向がある[限りなく過去形だと私は信じていますが〕と言われています。そういう信仰がおかしい、と思って宗教改革を起こしたルターから、現在の「信仰による救い」が強調されたプロテスタントが生まれたという歴史があることも知っておいていただけると嬉しいです。)

 

 

聖書そのものには、「あなたがたが救われたのは信仰によるのであって、行いによるのではありません」(ガラテヤ2:16)と明記されています。

 

 ■ さいごに

 

私は浄土(真)宗にそんなに深く触れてないので、その道に詳しい人からしてみたらイロイロ反論をされるかもしれません。

 

ですが、私が阿弥陀如来ではなくイエスを信じる理由が明確にあるとしたら、やはり「救い主の実在性」という部分かな~と書いていて思いました。

 

イエスの存在が「予言どおりに」「生まれて」「生きて」「死んで」「復活した」ということが限りなく歴史的事実に近い状態で語り継がれている、ということは、私にとって大きいです。

 

  

ということで、今日のブログはここまで。岡山英雄先生著〈天国と極楽〉は、「仏教キリスト教の違い入門編」にとってもおススメな本です!



 

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