人生のナラティブとその表現手法との間に生まれる齟齬【新世紀エヴァンゲリオンがキリスト教徒数に寄与してない理由】
アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」という物語と人間のナラティブについてある仮説を思いついたのでしたためます。
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我が国で「エヴァンゲリオン(ギリシャ語の「福音」)」と言えばアニメの『新世紀エヴァンゲリオン』ですし、死海文書もアダムとリリスも、セントラルドグマやら十二使徒という単語からも、それがアブラハム宗教の用語であると考える人よりもアニメのエヴァの用語であると連想する人の方が多いわけですが、
『誰一人、アニメのエヴァンゲリオンを観てキリスト教に入信した人はいない』
と堂々と宣言される方もいるくらい、日本のクリスチャン人口にエヴァが与えた影響というのはそんなに大きなものではないように考えられています。
(▽『誰一人~』という言葉はこちらのNoteより引用させて頂きました)
一応、私自身は方をそういう方を存じていたので「いるところにはいるよ」とだけお伝えしたのですが…。(『キリスト教徒の家庭に生まれるでもなく、エヴァにもハマり、現在はイエスの福音に魅了されてキリスト教徒として歩んでいる』という方です。
▽こちらのライターさんです)
それとも別に「もっとしっくりくる表現があるんじゃないか?」と思い、一回寝かせていました。半年くらいたった今ぺかーんとひらめいたのが
「人生の過程で『新世紀エヴァンゲリオンを観た』且つ『キリスト教徒になった』もしくは『新世紀エヴァンゲリオンにハマった』且つ『キリスト教徒になった』という属性を持つ人間はそれなりに存在するが、その人がその人生を他者に語る時に、それが表現されない」
という現象が起きているのではないか???という説です。
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「歴史というのは『事象の全体』を指すもので、当然ながらそれは人間に把握しきれない。それが表現されるときには、何かしらのストーリーに落とし込まれる。ゆえに『歴史』というものにはそもそも『真実のストーリー』というものは存在しない。(『事実』を羅列して述べることはできるし、あるいは『〇〇史観』と呼ばれる観点からみた一つのストーリーに落とし込まれる、といったことまではできる)」
と私は認識していますが、これは個人の人生が語られる際にも同じ事が起きていると思われます。
(例えば、「初めましての自己紹介」をする時はその集まりの目的によって語るポイントを変える、というような。日本のキリスト教徒の初対面の集まりであれば『自分のキリスト教徒としての歩み』に関する事におのずと触れると思いますし、仕事の関係でしたらそれにふさわしいストーリーを〈切り出して話す〉という行為が行われているだろうと思います。)
もし、『新世紀エヴァンゲリオンを観た』且つ『キリスト教徒になった』という属性の人が、キリスト教徒としての歩みを語る上で新世紀エヴァンゲリオンとの関連性を語らないことがあるとしたら、それは
『その人は、新世紀エヴァンゲリオンを、自身の人生を回収させるストーリーとは考えていない(だけ)』という事も十分に考えられるわけです。
次に『新世紀エヴァンゲリオンにハマった』且つ『キリスト教徒になった』という属性の人がキリスト教徒としての歩みを語る上で新世紀エヴァンゲリオンとの関連性を語らないことがあるとしたら、同じような理由と考える事ができると思います。
(といっても、日本のキリスト教人口というのは1%満たないわけでそこで新世紀エヴァンゲリオン的セカイ系コンテンツの話がわかる属性と出会える確率というのはかなり低かったでしょうし、単に話題に挙げなかった可能性もある訳ですが…。それはそれで、その人が新世紀エヴァンゲリオンというアニメの独自性によってキリスト教徒になったわけではないという事にもならない…かなぁ)
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そうなると、『誰一人、アニメのエヴァンゲリオンを観てキリスト教に入信した人はいない(エヴァの影響でキリスト教徒になった人はいない)』というのは、
ある意味で真であり、それは『イエス・キリストの物語の強度(+キリスト教の信仰体系の強さ)』を裏打ちするものになりうるのではないか?…と。
▽「キリストの物語の強度」という着想はこちらの動画から得ました
まあ当方はすでにキリスト教徒なのでそう考えたいのは然るべきでしょうし、キリスト教はそのストーリーだけで成り立っているわけではなくてイエス以降2000年かけて培われてきた信仰体系があるわけなので、そういったところに言及せず論じても空しい話ですが…。
もうすこし精査して「いつかみ聖書解説」にも書けたらいいんですけど……。