存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

メモ:キリスト教と日本人というテーマで考えてみる(佐古純一郎対談集/「背教者の系譜」武田清子など)

 

 

とある限界中年の方が「日本とは、みたいなテーマで人集めてキリスト教の話しすれば集まるでしょ、中年の人はそういうの好きじゃん」的なことをおっしゃっていたのに一理あると思ったので図書館でそういう書籍を片っ端から借りて読んでみることとする。

 

 

 

 

 

 

この書籍は文学者たちと佐古純一郎の対談集である。つまり、ここで立てられた命題があってもそれが適切なものであるかどうかはわからないし、それに対して発せられた文学者たちの応答も適切なものか、どれほどに真実を反映した応答かどうかは別の話である。

 

 

(「“真実”なるものが存在するのか、いや、しない」というのはいかにも日本人的思考であると最近感じるようになった。良し悪しの話ではない。西洋哲学およびかつてその主人であった神学は、“真実”なるものがありそれを探究するという形で培われてきたものであるからして、それに敬意を持ってこの表現を使いたいと思う。)

 

 

 

以下、田中千禾夫と佐古純一郎の対談より抜粋。p.53〜56

 

 

田中

話はちがいますが、裁判で証言をするとき、日本では何に従って証言をすると思いますか、これは良心なんですよ。

 

佐古 

そうですね。去年もそのことでずいぶん騒がれましたが

 

田中

そういう良心というものを日本人は信じていますけれども、ぼくはね、良心ぐらいあやふやなものはないと思うんですよ。時と場合によって変わるんですよね。

 

佐古

そうですね。

 

田中

こういう日本的な良心のあり方というものは、ぼくはいけないと思いますね。良心というものが絶対的なもんじゃないということを、自分の文筆の仕事で多少なりとも知らせてやりたいと、これが文学者としての私の一つの使命ではないかという気はいたしますね。良心の上に、ほんとうの絶対のものがあるということを、もっとわかってもらいたい、そういう気がいたします。

 

(佐古純一郎、イエスのことを「知らない」と言ったペテロのことを話題にして)

 

佐古

おそらくペテロだって、ほんとうにあのときにはいっしょに死んでもいいという気持ちが

あったと思うんですね。それが、あんたは弟子だろうと聞かれて、おそらく弟子だということがバレたら、自分もやられちまうという、やっぱりエゴといいますか、自我がわっと出て、無意識に、いや知りません、知りません、と言ってしまったと思うんです。そういうことを考えますと、イエスが、「おまえはメシアか」と問われて、「わたしはそれである」と証言をする、そのことが、さっき田中さんがおっしゃった良心、グラグラした変わりやすい良心に対しての、もう一つ深いところでの真理を示してくれるような気がするんですね。そういうグラグラしたたよりにならない良心というようなものだけによりどころをおいている限り、ほんとうの証言は出てこないなという思いがいたしますね。

 

田中

そうですね。それなのに、良心というものが案外もろいものだということを、一般の人はわかっていませんね。

 

佐古

はい。

 

田中

まあ、これは少しキリスト教の宣伝めきますけれども、唯一絶対なもの、良心以上に真理であり尊いものがある、それは何かということを、もっとみんなに考えてもらいたいと思いますねえ。

 

佐古

そうですねえ。

 

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しかし、キリスト者が人類的、普遍的キリスト教を信じる事は、個別民族から引き離される事ではなく、逆に民族文化の個別性、特殊性に責任を持って内在化し、そのユニークな文化をより個性的に自己実現させながら、普遍性に向かって開花させていくことを勧めるものであることが明らかにされなければならない。内村艦三は日本人がキリスト者になる事は、不正確な一般人になることではなく、独自に個性的な日本人キリスト者になることだと言った。しかもその個別性は排他的な特殊主義(particularism)になるのではなくて、普遍性に向かって開かれた独自性である。これこそキリスト教土着化の基本的課題である。この問題と原理的、かつ実践的に苦しんで取り組んできた日本人キリスト者の体験の試作は、世界のキリスト者たちの今日の模索に資する何者かを用意せしめられているのではないかと考える。p.43〜44