存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

「徳川家康が存在したことだって信じられない」人にイエスの「実在」を信じてもらうには

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※2016年、11月10日追記。

 

こんにちは、かすがです。

 

ご存知かもしれませんが私はクリスチャンです。

 

なので、『神さま』というものの存在を信じています。かつ、その神が聖書に書かれている神だと思っているし、イエス・キリストも神の姿の一つだと思っています。

 

これに反対する人の意見はよくわかるし、

私自身、そういう疑いの時期を経て今に至るので、

 

「なんで神なんて存在すると思うの?」

 

とか

 

「どうしてイエスを神と思うの?」

 

であるとかいう疑問には、自分なりの答えを用意してきたつもりでした。

 

kasuga-1221.hatenablog.com

 

ですが先日、予想外の疑問を投げかけられてしまい、言葉につまってしまいました。

 

 

それが、

 

「イエスって実在したの?見てないのになんで信じるの?口裂け女とかと同レベルでしょ?」

 

 

という話でした。

 

 

 

このギモンを投げかけてきたのは知人の女性です。故人ですが女優の川島なお美さんに似ているのでなお美(仮名)さんとしましょう。

 

なお美(仮名)さんに言いました。

 

f:id:kasuga-2-19-1-100110:20160124154849p:plain「歴史上の人物であることは否定できないはずですよ。なお美(仮名)さんだって、歴史上の人物・・・例えば徳川家康の存在は信じますよね?」

 

 すると、こんな返事が。

 

f:id:kasuga-2-19-1-100110:20160922183559j:plain徳川家康だって信じないわよ。適当に側近の人が作った作り話かも知れないじゃない。あたしは自分の目で見たことしか信じないのよ。」

 

 f:id:kasuga-2-19-1-100110:20160124154849p:plain『ふ、ふむ・・・!近代にかなり近い歴史上の人物とされている人も信じないのか・・・。どう説明したら納得してもらえるんだろう・・・?』

 

ということで、 

 

【『自分の目で見たことしか信じない』という人間に「イエスの実在「を納得してもらうにはどうすればいいのか?】

 

改めて答えとして持っておかなくてはいけないかな、と思い、ツイッターで投げかけてみました。

 

 

そこで、いろんな方の返事をいただけたので、今日はそれをまとめてみたいと思います。

 

■ なお美(仮名)さんの情報

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(画像はイメージです。)

●自称「自分の目で見たものしか信じない」

徳川家康の存在も信じない

与謝野晶子の実在は信じる。祖母が文通をしていたという話を、祖母から聞いたから。与謝野晶子直筆の掛け軸が家にあり、九州の大学に寄贈したという過去がある。与謝野晶子の生家とされる家が近くにある。

 

■ エルヴィス・プレスリーあたりをひきあいに出す

 

 

 

■ 西暦やクリスマスなどのデカイ概念を持ち出す

 

 

■  歴史を踏まえて話す

 

 

 

■ 感情に訴えかける

 

 

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■ ロジカルに話す

 

 

 

■ まずは「聖書を信じてもらう」

 

 

 

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・・・と、多方面からご意見をいただけました。

ご協力くださったみなさま、本当にありがとうございました!!

 

 

個人的に話しやすそうだなと思ったのは、西暦やクリスマスの話題と、歴史を踏まえた話ですかね・・・。

 

(時間と私の頭の回転が許せばロジカルな話でもいいのかもしれませんが、ロジカルな話が心に響くのであれば、なお美(仮名)さんも自分の発言の矛盾にすでに気づいているのではと思うので・・・。)

 

あ、あと、後ほど探した本の中にこういう本話しもあったので載せておきます。

 

 

私は控えめなところから、しかし最も本質的なところから始める。何よりもまずイエスは、実際に特定の時代に特定の場所に生きた一人の人間だった。

第一に、まず神話的なキャラクターを創りだそうとする人間が、彼の出身がナザレであるなどと提案することはあり得ない。しかし彼はナザレのイエスとして知られており、実際にガリラヤにはこの村があり、彼はガリラヤ人と呼ばれていた。

 

ナザレというのは小さく、汚く、取るに足りない、特に注目するべき特徴もない村である。ガリラヤの他の地区の人々さえ、この村を見下げていた。

 もしイエスが単なる神話的キャラクターであったなら、なぜ神話の作者たちが自分たちを困惑させるような神話を作るだろうか?

私がナザレのイエスが実在したと断言する第二の理由は、彼が明らかに洗礼者ヨハネの弟子として公生涯を始めたことである。

繰り返しになるが、私がイエスの実在を主張する理由は、イエスがヨハネよりも優れた者だと証明しようとする初期のキリスト者たちのこのたゆまぬ試みにある。

 

私が推測するに、イエスがヨハネの弟子であり、したがってヨハネの後に続くものという記憶は、各福音書が執筆されるまであいだにかなり知れ渡っており、その事実は記憶から消し去ることができなかったのであろう。

しつこいようだが、もしイエス物語が神話であったなら、彼が洗礼者ヨハネの弟子であったというような不都合で些細な点が含まれることは決してありえない。

第三の理由は、彼が処刑されたということである。初期のキリスト者たちは、彼の十字架刑による死を勝利であると主張するために途方もないエネルギーを費やしている。

説明され、擁護されなくてはならないような事実がなければ、弁解がましい説明がなされることもない。イエスが実在の人物であったということは否定できないのである。

 

(ジョン・シェルビー・スポング著、富田正樹訳「信じない人のためのイエス入門」より引用) 

 

 

 ということで、今度いずれかの方法でなお美(仮名)さんに話して見ようかと思います。進展すればお伝えします~

 

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私の個人的なスタンスは、こんな感じです。非常に似た感覚を言葉にされている人のnoteがあったので、引用。

 

私だってこんな話が荒唐無稽で無茶苦茶に聴こえることは普通に一般常識で考えると分かる。人間が昇天したり死んで生き返るのは見たことないし、「どうやって」と言われたら全くわけがわからないからだ。が、「信じる」というのはそういうことじゃなく、誤解を与えたくはないが、論理の飛躍めいたものがあるにはある。ただ「謙虚」であるべきと思うのは、たかだか世間知らずの自分が「見たこと無い」という理由で「信じない」のは浅はかだということだ。自分の知らないことなんてこの世には無数にある。宇宙の果なんて見たことないけど実在するし、世界がどうできたかも目撃したことはない、いま地上にいる人も誰もそれを知らないわけだ。

 


 いぜん教会に来たカナダの牧師が「車に鹿がぶつかって大変だった、車と同じくらいデカイ鹿で車ぶっ壊れた」と言っていた。無知な私は「牧師でも話を盛ることあるんだな、さすがに大袈裟やろ」とマジで疑っていた。ところが写真を見せてもらったのだが、本当に車くらいの鹿が世の中には居るのだ。私は正直いって疑り深い人間で、眼で見たことしか信じないタイプだ。だいたい世の中、嘘も嘘つきも多いし、今時はなんでも捏造できてしまう時代だし、怪しいことは多くある。とはいえ。

 

note.mu

 

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