存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

富田正樹先生訳【信じない人のためのイエス入門】を読んでいる。 そして途中で止まっている。(2021年追記)

 

2021年9月追記。この記事の主題(?)になっている書籍「信じない人のためのイエス入門(Jesusu for Non-Religious)の著者ジョン・シェルビー・スポング氏が亡くなられたという話を聴いた。御年90歳だったとか。R.I.P.

 

 

 

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信じない人のためのイエス入門、を読んでいる。そして、途中で止まっている。

 

 読み進めるのがつらい。

 

彼を見よ!

彼の神々しさを見るな、

しかし見よ、彼の自由を。

 

彼の語る大げさな物語を見るな、

しかし身よ、彼が自らを捨てるその無限の可能性を。

 

彼を包む一世紀の神話を見るな、

しかし見よ、彼の存在への勇気、生きる力を。

 

そして見よ。

彼の愛が人々に沁みわたるのを。

 

血眼でさがすのをやめよ!

じっとして、それが神であることを「知る」のだ。

 

その愛、

その自由、

その命、

その存在。

 

そして、あなたが受け入れられたなら、あなた自身を受け入れよ。

あなたが赦されたなら、あなた自身を赦せ。(「信じない人のためのイエス入門」本文より引用)

 

 

■ 私がどんな人間か

書評が知りたくてこのページに来られた方は、私がどういった思考回路を持っているキリスト教徒なのか気になるかと思う。

 

 私の沿革(?)はこんな感じだ。↓ 

kasuga-1221.hatenablog.com

 

 

真言宗の寺の末娘に生まれる。

2009年くらいから、大学生の友人について教会(プロテスタント福音派)に通い始める。

大学卒業するころに信仰告白

しかし、ここから2年半放蕩してしまう。

色々あってまた教会に戻り、2014年12月洗礼。

今に至る。

 

 

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 ・・という、まぁひよっこクリスチャンなわけだが、

 

そんなひよっこクリスチャンのワタシは、正直この本をどう受け止めていいかわからない。大学生の時なら、逆に納得していたかもしれない。

 

 

■ この本を知ったきっかけ

この本を知ったきっかけは、フェイスブックだった。

 

私が学生の時に、「キリスト教」について調べた時に面白いサイトをみつけた。「キリスト教下世話なQ&A」というHPだった。

 ↓↓

iChurch.me−キリスト教・下世話なQ&Aコーナー

 

運営者は、竹を割ったような表現を用いる、牧師先生だった。

 

富田正樹先生。

 

印象的だったので名前をずっと覚えていた。

 

こんな切り口のWEBサイトを運営する先生というと、なんとなく、都心に住んでいるイメージだった。

 

時を経て、私は、富田先生が私の住む徳島県で週2回牧師先生をしているのを知った。めっちゃ近くにおるやん。

 

 

驚きすぎてとりあえずFBで友達申請を送った。(←

 

そこから先生の活動をなんとなく知ることになり、2015年のある日「信じない人のためのイエス入門」という本を、先生の翻訳のもとで発売されることを知った。

 

 

3700円。安くはない。

 

だが、翻訳本と言うのはそもそも質が良い。(日本での出版サイクルは、海外に比べて早いらしく、その分質が低いモノが多いのだそうだ。)

 

いままで、こういう「キツ」そうなタイトルの本は避けてきた。それによって、逆に信仰を遠回りしてしまった感があることを薄々感じていた。

 

 

気になるなら早めに読んでおいたほうがいい。そう思った。

 

 

買う前に、これがどういった傾向の本なのかだけでも知りたかったが、なにせ発売したばかりで情報がなかった。

 

だから買うことにした。

  

■ 買って読んで、落ち込んだ

 

結果、落ち込んでいる。

 

なにかというと、かなり、福音書の神話性の部分を否定しにかかっている本なのだ。

しかし、この本の作者は「それでも自分はキリスト者だ」という主張は一貫している。

実に興味深い(←

 

これまでの聖書の読み方は間違っていたのか?

聖書学の知見に基づいた新たな読み直しから浮かび上がるイエスとは?

そして神とは?

著名な元聖公会主教が、教会の内外にいるすべての人に贈るイエス入門。

 

とのことだが、浅学な私にはなんとも言えない。教会の【内外】にいる人に対して…か。

 

まだその辺にまでたどりつけてなくて途中でのたれ死んでる私がいる。

 

■ 2019年のある日、私はこの本に救われた

2016年から時を経て、私は本棚に眠らせていたこの本を手に取った。

 

手に取った理由はいろいろあったけれど、一番大きい理由は礼拝のなかで突如恐怖に襲われたためだった。「私の信じているものが私が信じているカタチでなかったとしたらどうなるのだろう」みたいな恐怖だった。

 

そのとき私はこの本のことを思い出した。

 

家に帰ってこの本を読んだ。そして元気が出だ。なんというか「こういうのもあるのか」という感じがすとんと腹に落ちたし、それのおかげで元気が出たのだった。

 

 

「確かに私のいま信じてることはこの本に書かれていることと少し違う。でもそれは、もしかしたらいつか私を助けるのかもしれない。現にいま私をすこし元気づけたし。私には神を理解する権利を与えられていないから、『自分にはわからないけれどこういう信仰もあるのだ』という棚を自分のこころに作って置いておいたほうがいい気がする。」

 

と、そんなことを思うようになった。

 

理解できない、自分の解釈と違う、だからこれは必要ないーーそう思って目を背けていたときはそれはそれでラクだった。

 

でも今は少し違う。