存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

木下和好著、聖書の教える金持ち父さん貧乏父さん50。これから就活するクリスチャンは読んでみては?

こんにちは、かすがです。

 

先日、こういう本を読みました。

 

 

 

 木下和好著 【聖書の教える金持ち父さん貧乏父さん50】

 

「繁栄の神学的な本かな・・・。ヤベツの祈りみたいな感じかな・・・ヤベツの祈りも嫌いじゃないけど今はあんまり・・・もにょもにょ」

 

と、ごちゃごちゃ考えながら読みました。で、読んでいるうちに「うん、好きだな、この考え方。」と思っている自分がいます(←  

 

 

そもそも何が私のこの本を読む気にさせたかというと。帯の、この一文です。

 

自給自足は富を分配しない。

 

自給自足は富を分配しない。

 

私は、クリスチャンになってから「清貧とはなんなのか。」ということを考えるようになりました。

 

クリスチャンになるまでは、実家が真言宗の寺だったということもあってか、私は「質素倹約は美徳」という概念を疑いなく持っていました。

 

ですが、自分が会社で働き始めて、それを辞めざるをえなくなって辞めて、そしてクリスチャンになって、・・・いろいろあって、「仕事ってなんだろ、お金ってなんだろ、清貧ってなんだろ・・・」などということを考え始めました。

 

 

どこからどこまでが清貧とされるのだろうか。清貧とはなんなんだろうか。「富と神、両方に仕えることはできない」と聖書にはあるけれど、経済活動そのものを神が否定しているとは思えない。

 

でも、その線引きがわからない。

 

自給自足は美徳のように感じるけど。「人間が社会的生き物」であることを考えると、実はそんなんに単純な問題ではないとも思う。

 

そんなことを考えていましたから、この本を読んでみたいなと思ったのでした。

 

 

■ お金そのものに善悪はない

 

お金は、善でも悪でもない。お金は「価値」を交換するための便利な道具で、お金がないととても不便な社会になる。お金がなければ、全てを「物々交換」しなければならない。例えば漁師のように腐ったり痛んだりするものが財産の人は、その価値をお金に変えておかないと、やがて「物々交換」すらできなくなってしまう。

 

 ビジネスにおいて、「お金」=「信頼の証」という話しをよく聞きました。確かに、因数分解していくそれにいきつくと思います。

 

 では、信頼とはどういった状況から生まれてくるのでしょうか。そんなことを考えると、「聖書に書かれていることに従っていて、信頼が生まれないっていう状況はないんじゃないかな」とすら思えます。

 

ですので、ビジネスの成功法則に聖書は適応されてもおかしくはないと思います。

 

でも、今の日本には(教会も含めて)、どこか「お金を儲けるのは悪いこと、もしくは苦行の果てに手に入るもの」というような空気が流れているような気がしないでもありません。

 

 

(自分の教会ではあんまり感じたことはないですけどね・・・;)

 

 

そんな疑問に、少し手がかりをくれそうなタイトルのラインナップでした。ざっと見ていて、「これは気になる」と私が感じたサブタイトルをご紹介します。

 

●神と富とに兼ね仕える方法はあるか?

●アナニアとサッピラが死んだ理由

●ヨブの富の概念

●欲しがることと隣人の富を欲しがることの違い

 ●献金の出所

 

などが、特に気になったタイトルでしょうか。

 

■ 気になる中身を少し引用

 

youtu.be

 

 著者の木下和好兄のインタビューがあったので埋め込んでおきますね。↑

 

聖書には「とりあえずやってみよう」の実例が多い。なぜなら聖書は信仰を教える書物であるからだ。漁師であるペテロは、一晩中働いても漁が全然とれなかった時がある。そのとき漁師としては素人であるはずのイエスが「網をおろして魚をとりなさい」と命じた。取れないことを体験したペテロは、「お言葉ですから」と言って網を下ろした。これは「とりあえずやってみよう」と言う信仰的態度である。その結果、網が破れるほどの魚が取れた。(ルカ5:4〜6)

 

 

我々はいざ経済活動となると、信仰を捨ててしまう傾向がある。そして信仰のなさを信仰的なことばで覆い隠すのだ。「リスクテイキング=信仰」を「御心(神の心)ではない」という信仰用語で葬り去ってしまうのである。

 

 

クリスチャンの世界では、職業と収入源に関して聖と俗を区別する傾向がある。

 (中略)

私は聖書を読んでいて長い間気になっていたことがある。それは漁師ペテロに関する記述である。ペテロが兄弟アンデレと一緒に湖で網を打っていた時、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスに言われ、直ちについて行った(マタイ4: 18~20)。これはいわゆる「献身」なので俗から聖への職業転換とも言える。でも献身したはずのペテロが、後に漁に戻ってしまったのだ(ヨハネ21: 2~13)。イエスが捕らえられた十字架刑に処された時ならまだ理解できる。何せイエスを3度裏切ったのだから。私を失ってしまったペテロはもとの職業に戻るしかなかっただろう。でもペテロが漁に戻ったのは、失意のどん底にあった時ではなく、イエスの復活の軌跡を僕に行した後、すなわち強い希望を取り戻した後の話だ。

(中略)

献身者が普通の職業に戻った時、「脱落者、堕落車」と非難されることが多い。私はそういうケースを何度か見ている。ペテロが漁に戻ったのは一瞬ではあっても心に迷いが生じたからであると言うメッセージを何度か聞いたこともある。でも聖書の記述をよく読むと、再び漁に出かけたことが、聖から俗への逆戻りとは描写されていない。

 

 

 う~ん、興味深い話しですね。なるほど、ペテロの職業のことなんて、考えたこともなかった・・・;

 

また、あるクリスチャン企業団体が経営危機に瀕したときの例、というのも興味深かったです。

 

あんまり内容を話すと引用が過ぎるのでぼかしますが、要するに「信じて祈って行動する」ことと「信じて祈る・・・だけ」ということと、後者が信仰的だと思わせるような風潮がクリスチャンの世界にはあるけど、木下和好兄はそうは思わない・・・みたいなことがおっしゃりたいのかなと思いました。

 

これは、「 健全な信仰をどう育てるか」のテーマとも共通してるんではないのかなと思いました。 

kasuga-1221.hatenablog.com

私も、旧約聖書を読んでいても感じるのですが、『信じて進むとき』に主が守ってくださると信じることと『みこころかどうかがわかるまで待ってる』ってのはちょっと違うのかな、と思っているところです。ですから、丸屋真也先生にしろ木下和好兄にしろ、信仰に関するスタンスは今のところ共感しています。

 

それを思うと、こちら「潤った園のように」などは

 

kasuga-1221.hatenablog.com

 

『祈って待つ』ことに重きを置いている感があると感じますね。今思えば。

 

もちろん「信じて進む」といっても、『明らかに聖書に反したことをするときも信じて進む』ことを善しと思っているわけではありません。ですから、そこからズレないためにも常に神さまへの祈りや問いかけ、聖書を読むことはするものだと思っています。

 

ただ、実際になにか行動を起こそうとしたとき、現実の一つ一つの選択肢まで聖書に実例があるわけでもなければ、どうとでも解釈できてしまう箇所が多いことも実際かと思います。

 

そんな悩みを持っている私にとっては、背中を押してもらえたような読後感でした。

 

■ 20~30代、就職転職独立献身を控えた人は読んでみては

すぐ読めるけど、論理的に書かれた良書だと思っています。あとで ここで書かれている箇所から、また聖書をひも解いてみようと思います。

 

就職活動や転職、独立、献身などを考えているクリスチャンは読んでみてはいかがでしょうか?20~30代の若い人にむかって書かれた本のように感じました。

 

 

 

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