存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

丸屋真也著ー健全な信仰をどう育てるか。福音派、聖霊派などでクリスチャンとして走り出した人に1番おススメしたいかもしれない

 

kasuga-1221.hatenablog.com

 

 

 

キリスト教書店、というのはある意味魔の巣窟である。一度足を踏み入れると「あ、これ面白そう。これも買いたい・・」と思って、気づけば一冊、気づけばもう一冊、という具合にイロイロ購入してしまう。

 

 

 

ふつうの本屋に売っているかどうかわからないモノが多いせいか、これを逃したらまた次来るのは3ヶ月のちになるかもしれない・・・・!というような気持ちがそうさせるのかもしれない。

 

 

これも、最初は買うつもりがなかったのに店頭で手に取って思わず買ってしまった、そんな本の一冊だ。

 

 

■ 丸屋真也著「健全な信仰をどう育てるか」。

クリスチャンが目指すべき真に「霊的」な姿と教会で生じやすい人間関係の問題を扱った前著健全な信仰とは何かに続いて、信仰の健全な成長について、さらに詳しくわかりやすく解き明かしてくれる良書。

 

まず最初に、熱心な信徒であってもいつの間にか陥りやすい「健全でない信仰」が明らかにされるが、私だけでなく恐らく誰もが、思い当たることがあるに違いない。

 

そして自らの信仰を検討しながら、健全な信仰の成長について、心理学と聖書に基づき、具体的に学んでいくことができる。

 

 

健全な信仰の成長のためには「努力」が必要だが不健全な努力は無益であり、「律法主義的な信仰」ではなく「いのちの御霊の原理」に立ち、失敗の原因である自らの「弱さ」を明らかにし、絶えず修正する努力を「継続」することこそが不可欠だ…という点が、特に印象に残った。

 

 

自分の信仰に不安や悩みのある信徒はもちろんのこと、自信のある信徒や牧師にこそ、一読を薦めたい。(アマゾンレビューより引用)

 

健全な信仰をどう育てるか | 丸屋真也 | 本 | Amazon.co.jp

 

 

そもそも私は、「その場で盛り上がる感じ」にノレない人種のため、教会に通い始めた頃はとてつもなく警戒していた。

 

 

私の通っている教会は、比較的保守的で穏やかなかんじの礼拝プログラムだったので、そんな感じの私でも静かに「神さまと向き合う」ことができた。

 

 

そういう性格だからか、私はある日配られたキリスト教ニュースペーパーみたいな紙面のこんな言葉が気になった。

 

 

これは、平野耕一先生と言う方の「信仰とは何ですか」という本の解説だったのだが、こんなことが書いてあった。

 

特に、「何が信仰ではないか」という章で、

(1)それは感情的興奮ではない

(2)知的に理解することではない

(3)可能性ではない

(4)自己啓発ではない

(5)経験に基づくものではない

(6)信条を受け入れることでもない

と日本人クリスチャンの陥りやすい危険的傾向を指摘して解説を試みておられるのは卓見というべきでしょう。

 

 

 

ああ、そうなだんだなぁ。

やっぱりそうなんだよなぁ。

 

 

私は思わず切り抜いた。そしてこれを忘れまいと思っていたかたわら、ずっと「じゃあ、善い信仰とはなんだろうな?」というギモンもあった。(ちなみに、平野先生のこの本は、ネットでは見つけられなかった…;)

 

 

だから、この丸屋先生の著書は、タイトルからしてどれも惹かれるモノばかりだった。

 特に

 

「健全な信仰とは何か」

「健全な信仰をどう育てるか」

 

 

この二つは興味を引いた。

 

■ 「主は導いてくださるから大丈夫」の使いどころ

 

中を見てみると、そんなに難しい内容ではなさそうでありつつも、ボリューム感もあるようだった。しょっぱなから

 

 

 

1「主は必ず導いてくださるから大丈夫」という信仰

 

 

というテーマに切り込んでいるのが興味深かった。

 

 

 

このケースの具体例として、主の導きを求めて結婚したカップルについて述べたいと思います。

 

あるクリスチャンを通して紹介された方と何か月かお付き合いした結果、クリスチャン同士ではあるが、価値観や受けた教育などの違いがあることがわかりました。

 

しかし最終的には「主のみこころである」という確信が与えられて結婚に踏み切ったのです。

 

「違いについては、クリスチャン同士なので主が導いてくださるから大丈夫だ」と互いに確信に至ったのです。

 

 

 

そう、どうもこのカップルは、最終的にかなりすれ違うようになり、コミュニケーションも困難になり、とても難しい状態になってしまわれたそうなのだ。

 

 

これは、耳に痛い話だ。私はこの本を買おうと決心した。

 

 家に帰って、改めて読んでみると、この本は「言葉はやさしいが、取り扱っているテーマや言及している内容はとても繊細なもの」だと改めて思った。

 

 

たとえば、さっきの夫婦のもんだいについて。これについて、丸屋先生は

 

「主のみこころ」と「自分の解釈」を認識しているか?ということについて言及されている。

 

もちろん「主のみこころである」と「主」を強調することはいいですが、問題なのは「自分の解釈」ということを認識しているかどうかです。

 

 

主のみこころを、「自分の解釈」で決断したという認識を持たないで確信している場合は、何か問題が生じ、その改善のために祈っても思うようにならないとき、特に、改善しない期間が長く続いたりすると、「主は必ず導いてくださる」という確信までが揺らぐようになるのです。

 

 

 

(中略)

 

 

「クリスチャン同士の結婚なら、主は夫婦の問題を努力なしに解決できるように導いてくださる」とは、聖書のどこにも書いてないのではないでしょうか。

 

(中略)

むしろ、健全な信仰であるならば、夫婦の問題に直面するとき、互いの責任を自覚し、愛の実践を通して一体となれるよう努力できるのであって、「結婚がみこころであったかどうか?」などと悩む必要はないのです。

 

 

 

と、まあこんなかんじで「なるほど!これは、もしかしたら陥ってたかもしれない…」という痛いトコロについてしっかりと書いてくださっているわけだ。

 

 

へブル人への手紙の著者が、「信仰は……目に見えないものを確信させるもの」(11・1)と言っている通り、けんぜんな信仰は、見えるしるしを求めることではないのです。

 

 

このように、「主によって」と言いながら、自分があたかも霊的であるような気持ちになるとするならば、健全でない努力をしていると言えるでしょう。

 

 

 

ううううううううう;;;;;

 

痛い痛い痛い痛い・・・。改めて書いていても刺さる。

 

 

こんなぐあいに、この本は非常に「デリケートな部分について論理的かつ聖書的に書かれている」本だと感じている。

 

 

ということもあって、実をいうと私も隅々までは読み込めてない。

 

 

引き続いてアウトプットできたらしていきたいが、それも時間がゆるせば、である。(あとは著作権的に丸写しはアウトなので了承してほしい)

 

 

 

気になる方はどうぞ。↓

 

 

ーーーーーーーーーーー

 

ミヨシという石けんの会社がクリスチャン経営者の会社だったと知ったのは最近。この会社の石けん、私も私の母も10年以上使っている。(二人ともアトピー

 

とくに母は私よりも敏感で、フツーに売ってる白い石けんシリーズでは飽き足らず(?)このベビー用せっけんを通販で買って使っている。

 

ということで私も、「新居にハンドソープを置くなら絶対ミヨシのシリーズ!」と思って、引っ越して早々に意気込んでドラッグストアに行った。

 

でも、なぜかハンドソープの本体がなかった。詰め替えはあるのに。4件まわったのになかった。(東京やぞ)

 

色々あって、結局1ヵ月あとくらいに東急ハンズに寄った時に入手した。でも「とっとと通販で買えばよかった・・・」と思った。

水で洗ってもガザガサになる私の手が唯一使えるハンドソープ。クリスチャン経営者のというだけではなくて、フツウにファンとして応援したい。