なぜ酒はダメなのか。アル中とキッチンドリンカーを両親に持つ酒好きクリスチャンの私
こんにちは、かすがです。
四国のど田舎で寺娘として育ちながらも人生に迷い悩んだ末クリスチャンになったアラサーです。私、酒が好きです。
でも、「飲みすぎないようにしよう」と、細心の注意を払っています。なぜか。
今日はそのお話をしたいと思います。
■ 私の酒好き度
私はお酒が好きです。強いかどうかは別として、好きです。焼酎以外なら、ビールもワインもウィスキーもジンも日本酒もマッコリも、ほぼなんでも飲みます。
大学時代は、家に友人を招いてごはんをたべるとき必ず酒をだしたり注いだりしてたので、いつしか「スナックかすが」の名前をつけられていました。
なぜ好きなのか。それは、たぶん「血筋」です。
私の母も父も、なかなか飲む方です。私は兄弟が3人いますが、兄も私もお酒が好きです。
父は住職(僧侶)という職柄、飲まざるを得ない場面があって、飲んでいるうちに強くなったのではないかなと思います。
しかし、こう明るく書いてはいても、我が実家の内情はけっこうひどいモノでした。
■ たぶんアル中の父
私の父は、以前は「フツーのよっぱらい」でした。でも、私が高校生になるくらいから、だんだんと「異常な酔っぱらい」になりはじめました。
いつもではないのです。いつもではないのですが、たまに。
どうも、お酒を飲むと感情の激昂が抑えられないことがあるようで、その機会が増えたように感じます。
印象的だったできごとがあります。
ある日、法事から帰ってくるなり娘を門の外まで呼びつける父。
「おいかすが~!これみてみぃ!この、ヘビイチゴ!」といって、なぜか娘にいきなりヘビイチゴの観察を強要。
私が「・・・だ、だからなによ・・・。ヘビイチゴなんて、学校行くときいつも見よるし・・・」と言うと、急に
「オレのいう事がなんかおかしいんかぁぁぁぁぁぁぁぁぁl!!!」
とキレました。これが、「あ、これはヤバい・・・」と感じ始めた最初のできごとでした。 (そこから、たまにこういうことがあります。)
■ 悪酔いはしないが酒の魅力に取りつかれているキッチンドリンカーの母
母の場合。
母の晩酌は夕方からはじまります。
我が実家の食卓は20時くらいに整うことが多かったです。なぜかはわかりませんが、要因のひとつとして「母の晩酌」があったのではないかと思います。
母は、夕食の支度をしながらほぼ必ず酒を飲みます。酒と言ってもチューハイですが、あまり甘いのが好きではない母は、アルコール度数もチューハイにしては高めな骨太商品を愛飲しています。
食事をととのえるまでに1~2本飲みます。ですが、私がいる場合はこのへんで私がもらうので、実質は1本程度かと思います。
そして、食事をいただきながらビールかワインを飲みます。だいたい両方飲みます。
そこから、調子がノレば、ハイボールを飲みます。
この普遍的なチョイスからおわかりのように、「どっちかというと酒が好き」なだけです。
ですが、この「酒好き」ということがどういうことなのか、私はまだわかっていませんでした。
■ 息子に飲酒運転を勧めるようになる
私の結婚式でのできごとです。式を教会で挙げて、披露宴などはせずに、着替えて家族だけで駅前に食事をしにいきました。ちょっといい感じのお料理やさんでした。
私の家族サイドは、帰りのドライバーを兄に任せるハナシになっていました。ですが、いざウーロン茶を頼もうとする兄にむかって、母はこんなことを言い始めます。
「めでたい席なんやけん兄ちゃんも吞みないだ~」
と。これは完全に飲酒運転ほう助です。
確かに、飛行機に乗るという時間をはさむため、実際に運転するのは4時間以上はあとになります。
でも、微妙な時間です。もし、分解がおいついてなかったら。もし、ノリでいっぱい飲んでしまったら。
そんなことにおびえるくらいだったら、最初から飲まない方がいいに決まってます。私は酒が好きだからわかるんです。勧められて断るときの後ろ髪をひかれる感じ。
『本当にその人のことを思うんだったら、そんなやりきれない想いをさせるなんてどうなの?』
『っていうかもし事故を起こしたら、人を殺すかもしれないのに?』
『事故を起こさなかったとしても、検挙された時点で兄の人生に大きな損失を与えることになるのに?』
そんなモヤモヤでぐるぐるしていた私の横で、兄はココロ苦しそうに「・・・いや、吞まん。」と断っていました。
私は、そのとき思ったのです。『お酒に吞まれる、ってのは、父みたいに直接暴力的なアクションに出ることだけではないでは・・・』と。
■ 酒の魅力に取りつかれて、酔ってもないのに理性を失う
私はその時思ったのです。
酒の魅力に取りつかれて、法に触れることすら厭わなくなってしまう。こういうのも「酒に呑まれている」ことなのではないか。と。
そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 (ローマ人への手紙13章13節)
そう考えると、聖書が私たちに伝えている「戒め」っていうのは深いものです。戒めはときに「窮屈」ですが、同時に「私たちを守る柵」なんだということを感じざるをえません。
(かといって、こういうのことに対して「自力で自分を律する」ことも不可能だと思っているのでそのへん誤解がないようにお願いいたします。)
悲しいかな、アルコールにはそれだけの魅力と、威力があるということなのでしょう。
「酒を飲むことがすべて悪い」なんていうのは、ナンセンスだし、愛がないと思います。私は楽しく飲んでる人に水を差すようなことはしたくないです。私も水を差されたらいやだからです。
でも、他人に犯罪を促したり、よっぱらって怒号を浴びせるようになる可能性と隣り合わせであること、それを忘れたくはありません。酔うと理性が効かなくなります。時にはこういうことにもつながると思います。
私は結婚してから、飲む量を減らしました。実家にいたときと同じように飲んでいたら、行き着く先は父か母と同じだと思ったからです。
飲まないと家計にも優しいし、妙にカラダがダルくなったり、そのくせ頭が冴えて寝れなくなったりするということも減り、目に見えるメリットがあります。
(「酔って、取り返しがつかないことをしたら人生が終わる」といいたいわけではありません。私が信じている神は、どんなにバカなことをやらかした救いようのない人間にも愛を注ぐ神だからです。)
このことに感して、私は自分の記録以上のことをのこせません、ということで、私が「お酒を飲むこと」に関して感じたできごとでした。
ではまた。
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