きよめ派〜日本イエス・キリスト教団〜のリアル(2019.09追記/2022.10さらに追記)
こんにちは、アラサーのクリスチャンかすがです。実家は四国の田舎の寺です。家族の中ではたった一人のクリスチャンです。既婚。(2021年追記。33歳になろうとしています)
私は、大学時代にはじめて教会に行き、そこからイロイロあってクリスチャンになりました。もちょっと詳しく知りたい方は自己紹介をどうぞ。
で、今もその時通い始めた教会と同じ教団内の教会に通ってます。日本イエス・キリスト教団。
まだ洗礼を受けて日も浅く(2016のクリスマスで3年たつ)、奉仕などにも深くかかわってない一信徒にすぎませんが、「外側」の感覚が残ってるうちに、「日本イエス・キリスト教団」というものに対する私の見聞きしているものを記しておく必要がある気がする・・・と思いました。
たぶん、私自身の考え方というのもこの先変わってくるし、教団そのものの在り方ももしかしたら変化していくかもしれませんが、それでも「今」を残しておく必要があるんではないかなと思ってます。
タイトルは【キリスト教のリアル (ポプラ新書)】という本から拝借しました。こちらの本も、「クリスチャンじゃないけど教会に興味がある人に読んでもらう」ことを意識した、なかなか興味深い本です。
*【書評】松谷信司編著『キリスト教のリアル』 : 書籍 : クリスチャントゥデイ
*松谷信司『キリスト教のリアル』を読んだ(1) | 一キリスト者からのメッセージ
*標準からほど遠い四人だからこその「キリスト教のリアル」 | 命と性の日記〜日々是命、日々是性
*書評:キリスト教のリアルについて解説します。 | ガチレズクリスチャンだけどなにか?
レビューはたくさんあるので気になる方はどうぞ。
(※これからお話しすることはあくまで主観です)
■ ネットにある「福音派」「きよめ派」のイメージと、自分の環境があまりに違う
私も、インターネットネイティブ世代ではないにしろ引っ込み思案のため、新しいものや新しい環境についてはかならず「ネットで検索」して探りをいれるところからはじめます。
こういう↓気持ちの移り変わりを経て、
現在は「自分の所属している教団の考え方やルーツをもう少し知りたい」と思うフェーズに入っています。そのためにまず「ざっくりと知ろう」と思ってネットで調べるところからはじめました。
すると、なんとも不穏な記事が続々出てくるではありませんか……。
ファリサイ的な「律法主義」、裁く傾向性、エリート意識などによって「傷つけられる体験をした信徒」がたくさんいたそうです。
きよめ派は、自我を十字架に付けるなら喜びに溢れた信仰生活が待っていると教えます。
2ちゃんねるだと「戦後設立された福音派はほぼカルト」なる言葉も。
ーーーーーーーーーーーー
(2019年9月追記)
「きよめ派」はJ.ウェスレーの「キリスト者の完全」論に立つ諸派を指しているが、その伝道活動はかなり特異なものであった。例えば、『日本基督教団史』は「きよめ派」について次のように述べている。
「…その伝道は感情に訴える面が強く、霊化、聖化、神癒、再臨などにその顕著な信仰的特徴を見る。したがって大衆性、庶民性を持ち、一般社会に食い込む伝道武器によって熱烈な伝道をする。しかし、非妥協的であり、あまりにも主観的であり、また分裂的である。」
(引用:「日本のキリスト教児童文学」日本児童文学学会 冨田博之、上笙一郎編 p.216より)
ーーーーーーーーーーーー
『おいおい、アタシの通っとる教会、完全に“戦後の福音派”やんけ……。でも教会の人からカトリックdis聞いたこともないし、“きよめの強調”とかも聞いたこともないけどな……?』
『そりゃ色んな人が集まっとうけん“この人苦手かも”みたいに思うことはあるけど、“他人の信仰に対してどうこう”みたいな口出ししてくる人も牧師も別におらんけど……。あ、もしかしてウチきよめ派とちゃうのん?』
『いや、聖公会のバックストンって人が伝道した流れだ。流れ的には“きよめ派”なはず……。おお、聖公会ってカトリックと近いんか。だからカトリックdisとかは聞かんのかな?』
「やべぇところに関わっているのでは・・・」という疑念を持ちつつ、自分の求道5年洗礼より3年の道のりを思い起こす『リアルとネット情報はやっぱちょっと違うんとちゃうか。』という感覚を覚え始めました。
■ 教団長のスタンス
たとえば、私が今主人と一緒に通っている荻窪栄光教会は、そこそこ人数が多い為か牧師が2人いるのですが、1人は(元)教団長という立場だそうです。
プロテスタント(キリスト教界全体に言えることかな)は牧師の権威化に非常に敏感なので、私自身も「この先生は○○だから偉い、すごい」みたいな思考にはなれないのですが、
とはいえ教団長ってことは教団の牧師の代表ってことだから、この牧師のスタンスある程度「日本イエス・キリスト教団」というものの方向性が見えてくるのでは、と思いました。
つまり、この中島牧師の考えは“きよめ派”解釈のひとつの参考になるはずなのです。
礼拝中の説教だと解像度が低いこともありますので、祈祷会で色々と質問をさせていただき、中島牧師のスタンスなどを知ることになりました。
↑ で書かれている、どの内容が中島牧師の解答なのかはなんとなくわかっていただけると思います。
中島牧師はどちらかというと「人に対して愛を持って接することの大事さ」を強調する考え方だと思います。
これには、ネットで言われている「自我の磔殺」や「きよめの強調」とは違った印象を受けました。
中島牧師はこんなことも言っていました。
「うちの教団は『きよめ派』っていわれてるけどね。清められるって、自分の心の奥底でしかわからないことだよね。
で、きよめられるってのは、 『イエス様のようになる』ってことでしょう。でもね、心の奥がイエス様のようになるってのは実際無理だし、他人にはわからないことでしょう。
だから他人に向かって『きよめ、きよめ』って強調しすぎると良くないよね。ハゲ頭の人が毛生え薬売ってるようにみえるよね」
と。これを聞いたとき、ぶっちゃけ自分は「え、教会の牧師がこんなことを言っていいの?」と思って肩すかしを食らいました。
でも、それと同時に「全ての罪が赦される、イエスの十字架の贖い」についての信頼を感じさせられる発言でした。
そういえば、中島牧師は祈祷会に使うテキストなどに「信仰をかたくなに守ることの強調」があれば、必ず「かといってクリスチャン以外とまったくの没交渉になるのは、よくない」という旨のフォローを入れる気がする、と気づきました。
ただし、あくまでこれは中島牧師の考え方です。中島牧師自身も「今の若い人がどう考えてるかは、わからんのだけどね」と言っていました。
この「若い人」というのが「自分の後輩にあたる牧師」を指すのか、それとも「自分よりも年齢の若いクリスチャンを指すのか」は、会話の中で確かめることができませんでした。
私は前者の意味だと思っていますが、実際はわかっていません。
(ちなみに、 現在荻窪栄光教会の主体となっている牧師先生は、井上義実牧師です)
(井上牧師にもいろいろ話は聞いてみたいのですが、今のところあんまりタイミングがあわなくて話す時間がありません)
■ 主人は私が引くくらい教会選びに慎重だった
主人はクリスチャンホーム育ちですが、洗礼は私よりも1年遅いです。27年かけて信仰への決意が固まった……と思いきや、そこから怒涛の教会リサーチが始まりました。お義母さまにも『教会選びの基準』を聴いたりして。
でも、結局は私と同じ教団の日本イエス・キリスト教会で洗礼を受けました。私は「色んな要素をかんがみて落ち着くところに落ち着いた」くらいに思ってたんですが、それも主人なりに理由があったようで。
一因は、洗礼前に訪れた荻窪栄光教会で、中島牧師に「汝ら我を選びしにあらず、我なんぢらを選べり。」(あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。ー新約聖書『ヨハネによる福音書』15章16節)という聖書の言葉を伝えられた時、荻窪で洗礼を決意するに至ったというものだったみたいです。
■ 意識の低い私が通い続けることができている教会
こうやって牧師の話をしてると、「イエスを見ていない」「党派心だ」とかいう声がどこからでも飛んできそうな気がしますが、飛んできたとしてもこの記事は取り下げませぬ。(吐血)
私の信仰がどうであるかは私と神さまの問題であり、ここで書いていることで私の信仰の何かが測れるとは思っておりません。
私は意識も低いし、体力もないし、持病もあるし、全体的に「弱者」に分類される人間であると自負しています。
そんな私がいつも思っているのは、「優しさを維持するのはむずかしいし、死ぬほど忍耐が要る」ということです。
だからご高齢にもかかわらずこの「優しい」スタンスを持っている中島牧師は、すごい精神力だなと思っています(維持し続けてきたのか、いろいろあってそこに落ち着いたのかは知りませんが)
罪赦された人たちの集まりであるはずの教会が、周りの人間に「敷居が高い」 と思わせてしまうのも、ひとえに「優しさ」を維持する筋肉は衰えやすいからではないかと思ってます。(※)
ーーー(※2022年追記)ーーー
今読み返すと明瞭ではない文章だと思ったので追記します。
この文は、要するに「既存のキリスト教会は『敷居が高い』と思われがちだが、それは『ゆるいから』」という主旨の文章です。
どういうことかというと、
「敷居が高い」→「役割分担の強制力などがゆるい」→「みんなが新参者に優しいとは限らないから初見の感触としては微妙」→「しかし、初見には微妙に映ることもあるが、その壁を超えると所属する分には優しくて楽」
という私の私見が隠れています。(知らんがなって話しですよね。この時はここまで詳細に言語化する気力がなかったのだと思います。)
給料の発生する団体などは「お客さん」と「スタッフ」の境がそれなりに明瞭ですが、こういった組織というのはかなりのグラデーションがあると認識しています。
そんな中でも、拘束力や干渉が強い、いわゆる「社会的カルト」のような体制の共同体というのは、なかなかうまい事情報統制できているところが少なくなく、初見さんを「内部」につなげるまでの動線がしっかりしている…印象があります。(褒めているわけではありません、一応)
ーーーー(追記ここまで)ーーーー
「意識が低い私でも通い続けることができている教会」いまの私が自分の所属教会に抱いている感想です。
正直私は、このブログをリアルの教会の人に見つけられるのは嫌です。それでもブログ内に自分の教団名教会名を明言しました。
それは、自分がもし「この教団、この教会に足を踏み入れてみよう」と思ってネット調べたらどうなりそう?と想像したからです。ネットには『あ、なんかようわからんけどココよくないっぽいのでやめとこう』と思われてしまう情報しかない印象だったから、それの流れをちょっと変えたかったのです。
あくまで、まだ信仰の2歳児。2歳児感じる、きよめ派(日本イエス・キリスト教団)のリアルな温度。
私はここで信仰生活を送っていきたいと思っています。そして、自分の群れが健全な信仰を保ち続けられるように、新たな人にも加わりつづけてほしいと願っています。
誰かの役にたちますように。では。
おまけ
日本イエス・キリスト教団で20代から30代のひとたちで分かち合いをする「ビーリック」という集まりがあるので、ちょっとシェアしておきます。
毎回違う牧師を呼んで、毎回違うテーマで話を聞いてみる…という感じです。
↓タイトルで参考にさせていただいた【キリスト教のリアル】は、このブログの内容と関連性はありません。【キリスト教のリアル】はちょっと外側のことが書かれた本です。
クリスチャンでない方に向けて書かれているので、クリスチャンには物足りないかもしれませんが、私のように「信仰歴も浅い家族でたった1人のクリスチャン」にはいいと思います。雑学本という感じで読めます。
【同じカテゴリの他の記事はこちら ↓ ↓】
【ほかにもこんな記事があるよ ↓ ↓】