存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

信仰のドラマ中毒にならないように自戒。

以前書いた「某異端的教会から出てきた姉妹の話し」は、私が感じていた通りけっこうなレアケースだった(ような気がしている)。

 

 

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そこで思ったこと。

 

 

 

彼女のように、インスピレーションと言うのだろうか、直感と言うのだろうか、御霊に敏感と言うのだろうか、そういう経緯で出てきたことは、「いいこと」だと思う。

 

 

ただ、周りにはあんまり話せないと思う。人に話すには「ドラマ性」に欠けるからだ。

 

 

私たちは往々にして、こういうものにドラマティックさを求めるきらいがある。

 

 

確かに、ドラマ性や、深くかかわった人の話しも必要だと思う。私も、某異端的教会のなにが悪いのか?というハナシをされると「わからん」としか言えない時期があったが、こういう話しをきくと、なんとなくわかったし、↓

番組記事「私が本当に捕われていたのは…」 | FEBC Online

 

ああ、アーメンだなぁと思う。

 

 

でも、目に見えて恵みが大きいのは不信仰だからであろうし、恵みが小さいと感じる人はそれだけ神に従順な証拠でもあるという気持ちもある。

 

 

 

私はドラマティックが苦手だ。

 

 

それが「自分の肉的な感動」なのか「聖霊が満ち溢れている」のか、自分では判断がつかないから、警戒してしまうのだ。

 

 

だから、そういう「感動を呼び起こすモノ」にたいしてはとても気持ちが覚めてしまう。フランクリングラハムフェスティバルも、楽しいけれど、好きかというとそうではない。

 

 

 

もちろん信仰は「感情」ではない。だから、「感動すれば信仰」でもなければ「感動しないのが信仰」でもないんだと思うんだが、そのへん難しいし「じゃぁなんなんだよ」と言われると「神と自分のマンツーマンになって問いかけてください」としか言えない。

 

 

この考え方は、私を苦しめており、また助けている。ビジネスセミナーなどでも、この能力は周りを大いに白けさせ、かつ私を私たらしめている。

 

 

 

で、こんなドラマティックな展開が嫌いな私も、キリスト教会に通いだした大学生の時はまさしく「あまりにも穏やかに神さまが私のなかに入ってきた」からだった。

 

 

だから、そういう証しができるクリスチャンでいいようと思った。

 

 

その矢先に堕落して放蕩してそこからの復活劇は、私の人生でおどろくほどドラマティックになってしまったので、笑える。

 

だから、自戒。

 

 

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