私の魂は歌う、力の限り。「君に守られて今日まで来た」と。君に守られて今日まで来たと。
最初は何一つわからなかった聖歌も、1年も毎週教会に通えばわかるものがチラホラとでてくる。
私が最近好きな歌はこれだ。
590番 「救い主イエスと」
1 救い主イエスと 共に行く身は
乏しきことなく 恐れもあらじ
イエスは安きもて 心足わせ
物事 全てを 良きになし給う
物事 全てを 良きになし給う
2 坂道に強き 御手を差し伸べ
試みの時は 恵みを賜う
弱きわが魂の 渇く折りしも
眼の前の岩は 裂けて水沸く
眼の前の岩は 裂けて水沸く
3 いかに満ち満てる 恵みなるかや
約束しませる 家に帰らば
わが魂は歌わん 力の限り
「君に守られて 今日まで来ぬ」と
「君に守られて 今日まで来ぬ」と
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私が「自分でできる」と思ってはじめたことはすべて泡になった。知らない間に自分が自分でないモノになって、私の心はいつも妬み、昂ぶり、嫉み、恨んでいた。
自分史上一番「自分がどうにもならなかった」のは、性依存の時だったように思う。一種の恋愛依存だったのかもしれない。
思い返すたびに、よくもまぁあんなごちゃごちゃな状態で生きてたなと思う。でも、私が欲しいモノは最初から決まっていた。
それは、ココロからの安息と魂の安らぎ。
あの暗い縁からすくいだされたことを思うたびに賛美をせずにはいられない。「わが魂よ、主をほめよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」という聖句と共に。
空色勾玉と白鳥異伝と薄紅天女と、人間を救おうとする神の話し。(ネタバレあるよ。2019年追記)
(この記事は2019年11月ごろ追記と修正しました)
こんにちは、かすがと申します。四国の寺の末娘に生まれてなんやかんやでクリスチャンになったアラサーです。既婚子ども予定なし。
人に自分のアイデンティティを話すとき、「寺で育ったけど今はクリスチャン」というと比較的わかりやすいので話すことが多いです。で、そうすると『ああ、じゃあ仏教からキリスト教にかわったのね』と思われがちなのですが、実は自分的にはこの言い方はしっくりきません。
それは、自分が幼い頃より「日本仏教」に興味を持てなかったからです。なぜかというと、父である住職自身が仏教を「宗教」としてはとらえていないし、家族みんな大体そんな感じだったからです。
では、私は「世界は何でできている」と思って幼少期をすごしたのでしょうか。 今日は、古事記を中心とする「日本の神さまの話し」と、それにハマっていたにもかかわらず私がクリスチャンになった理由をちょっとお話ししてみたいと思います。
\記事の途中ですが/
\空色勾玉スキーの私の性癖に刺さるラノベ紹介/
巫女姫の十字架~蛇の異類婚姻譚とキリスト教とすめらぎをめぐるファンタジー~|チャットノベル作品詳細|NOVEL DAYS
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おススメの「話の聞き方」動画紹介【伝道途中に相手の話を聞く、というフェーズが必要だと思う人に】
キリスト教伝道に「対話」は必要?不要?私の想いと具体策
こんにちは、かすがです。
このブログは、2016年の初めの方に書いて、ちょっと炎上っぽくなった記事です。
その時は、ネットでも伝わりやすいようにと思ってかなり断定的に書いてしまったのですが、それが快く思われずに反発を抱かれる方がいたので、書き直しています。
このところ私が思っていることがあります。
「キリスト教伝道には対話が必要な場合もある」
「傷ついていたり落ち込んでいたりする人に正論を投げることが良いことだとは思わない。けど、聖書に基準を置くとき、ついそういうことをやってしまいがちになる。それは本当に、イエス様の言われた『隣人愛』の表し方なのかな?」
「教会で、相談をしたかったんだけど、受け止められる感じがなくて『祈るわ』って言われて、ちょっと不完全燃焼。兄弟姉妹に頼りすぎるのもよくないと思うけど、もうちょっと気持ちのいいコミュニケーションしてくれたらいいのにって思わないでもない・・・」
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