存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

キリスト教伝道に「対話」は必要?不要?私の想いと具体策

こんにちは、かすがです。

 

このブログは、2016年の初めの方に書いて、ちょっと炎上っぽくなった記事です。

 

その時は、ネットでも伝わりやすいようにと思ってかなり断定的に書いてしまったのですが、それが快く思われずに反発を抱かれる方がいたので、書き直しています。

 

このところ私が思っていることがあります。

 

キリスト教伝道には対話が必要な場合もある」

 

「傷ついていたり落ち込んでいたりする人に正論を投げることが良いことだとは思わない。けど、聖書に基準を置くとき、ついそういうことをやってしまいがちになる。それは本当に、イエス様の言われた『隣人愛』の表し方なのかな?」

 

「教会で、相談をしたかったんだけど、受け止められる感じがなくて『祈るわ』って言われて、ちょっと不完全燃焼。兄弟姉妹に頼りすぎるのもよくないと思うけど、もうちょっと気持ちのいいコミュニケーションしてくれたらいいのにって思わないでもない・・・」 

 

  

 教会や宗教に関わる人は、そういう信仰を持たない人とくらべてどこか「悩み相談役」として見られることが多いのではないでしょうか?

 

(※キリスト教伝道には種類があると思います。ここでお話ししているのは個人伝道か、証し伝道と呼ばれるモノに適応されると思います)

 

福音は確かに愛に溢れていて、正論で、深くて、力を持っています。ですが、信仰に入った人のなかには、初めから聖句に心打たれたのではなくて「クリスチャンだった○○さんの生き方を見て」「○○さんの信じてるものがどういうものなのか気になって・・・」というように【クリスチャンの生きざま】を見てキリスト教に興味を持った、という道をたどっていることもまた事実だと思うのです。

 

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2016年、神戸で行われた伝道会議において、アメリカの学生伝道団体主事のジェームズ・チョング氏はこのようなことを話されたそうです。

 

「今までの福音は、一方的に語りかけるかたちが主流でしたが、文化との対話、今の学生・若者が『何に関心があるか?』という問いかけを通して福音をとらえなおした。それから、横ばいだった決心者の数が増え始めた」

 

と。(また聞きなので要約です。カンタンなまとめはコチラにも載ってます)

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 ちょっとわかりづらいのですが、ものすごく噛み砕いて言うと「クリスチャンが一方的に聖書の話をするのをやめて、相手の話を聞くようになったら洗礼決心者が増えた」ということだと思うのです。

 

 

一般社会では、「人の話をきかない」というのはごくあたりまえのように行われていることです。私は別にクリスチャンの誰もが人の話を聞くようになればいいとは思いません。

 

 

 ですが、キリスト教伝道をしたい」と思うのであれば、その方法論はいくつ持っていてもいいはずです。「ただ伝えたい、素晴らしいことを伝えたい」という気持ちから、一方的に話してしまいたくなる気持ちもわかります。

 

ですが、今の世の中はそもそもが情報過多です。福音の素晴らしさをまったく知らない人に一方的に話しても、「あ、私には関係ないかな」と思われてスルーされる可能性の方が高いはずです。

 

私だったらそうします。色んな人の話をぜんぶ自分に取り入れていたら、自分が壊れるからです。

 

自分にメリットがないと思われた話は、自然とシャットアウトしてしまいます。

 

だから、まず「興味を持ってもらう」ために「対話」が必要だと思うのです。対話して、「この人が求めてることは何かな?」ということを知る。相手に対して敬意を払っているということを体現する。その人が神の似姿に作られたかけがえのない存在であることを、まずは自分が表す。そして、相手と信頼関係を築いていく。

 

そういう行動が必要な時代になっていると、私はそう思えて仕方ないんです。

では具体的にどうすればいいのか?という事をお伝えしたいです。

 

■「本当の悩み」まで聞いてみる

 

コーチングやカウンセリングと言うメンタルマネジメントを学ぶと、かなり初期で

 

「悩んでる人は、自分が何に悩んでいるのかすら気づいてない場合が多い」

 

ということを学びます。

 

こちらの私の本職のブログ記事でも書いています。↓

www.100grandma.com

 

 

 

ここでは、「子どもに相談されたことをよくよく聞いていたら『本当にやったらいいこと』がわかってきて、提案ができた」という実体験を綴っています。

 

 

(ちなみに教会のキャンプで起きたことなので、詳しく知りたい方は読んでみてください)

 

 

私の伝えたいこと、なんとなくわかっていただけたでしょうか?もしこれを読んでいるあなたが人に何かを相談されたときは、どういう思考パターンになっているでしょうか?

 

 

もしかしたら、そのまま「だったらこうしたら?」とか、もしくは「聖書にはこうあるよ」といったことを返していませんか?

 

 

もちろん、それは間違った会話ではありません。ただ、そういう会話は相手に響く確率がとても低いということを自覚しておくのはいいことだと思うのです。

 

 

断っておくと、これはメンタルマネジメントの訓練を受けた方でも忘れてしまうことがあるくらい、難しい考え方です。

 

(これをやること自体はカンタンなんですが、その考えを維持し続けるのはむずかしいです)

 

 

ですが、逆に考えるとそれだけたくさんの人が「やってしまいがち」なあるあるだとも言えます。

 

 

私たちは往々にして、本当はインドに行きたい人に「ロサンゼルスに行く方法」を提示しています。

 

 

それは、きっと相手が最初に「ロサンゼルスに行きたい」と発言したから真に受けてしまったんだと思います。普通の会話なら、当たり前です。

 

 

ですが、相手に「どうしてロサンゼルスなの?」と聞いていくと、「いや、本当はインドにいきたいんだ…」くらいに話が変わることは、コーチングやカウンセリングの世界では普通にありうることです。

 

むしろ、インドにいきたい、のですらなく「恋人がほしい」くらいのものに変わる可能性があります。

 

 

それくらい、私たち人間は「自分の本当の望みを自分でも知りません」

 

 

じゃあ、最初の言葉を真に受けて「ロサンゼルスに行く方法」を的確にアドバイスしても、きっと相手はまたモヤモヤします。だって本当の望みに対する解決策を提示されてないんですから。 

 

 

でも、私たちは日常生活でそういうことをやりがちです。ましてや、「相談された」であるとか「伝道したい」という想いがあればなおさらのことです。

 

 

 

「悩んでいる人間は、『自分が何に悩んでいるのか』すらほとんどわかってない」

「『間違った目的』に対する『的確なアドバイス』は相手に響かない」

 

 

 これを知っておくと、対話がとてもラクになると思います。まずは「相手の本当の望みを知る」ことからはじめる。これだけでも、相手の人のこちらに対する信頼感がとても上がると思うからです。

 

 

 

■ どうすればいいのか?のまとめ

 

 

ここで、具体案をまとめます。カンタンです。

 技術としては非常に簡単です。やろうと思えば今すぐにでもできることばかりです。それを念頭に置いて、読み進めてみてください。

 

 

 

まず、共感しながら話を聞く。

「それってどういうこと?」「っていうのは?」「他には?」で話を深堀していく。

「本当はどうしたいの?」で会話の流れをひっくり返して『相手の本当の望み』を知る。

 

これに尽きます。こちらの話し(聖書の話し)をする前の段階で、一旦ここまでしてみると、相手の納得感がものすごく上がると思います。

 

人間には「返報性」(人は他人から何らかの施しを受けた場合に、お返しをしなければならないという感情を抱くという心理)があるので、「ここまで話を聞いてくれたから、今度はこの人の言ってることも聞いてあげよう」とういう気持ちが呼び起こされる可能性もぐんと高まります。

 

 

優しい方なら「共感」までは普段の生活に取り入れられていると思います。実際、「共感しながら話を聞く」ことができる人はたくさんいらっしゃいます。

 

 

ですが、それだとパンチが不足は否めません。ひっくり返しがないため、自分も相手と同じ目線で、同じ悩みにハマッてしまい、会話の緩急がつかずにこちらの話しに持って行きにくい。

 

 

だから、そういうときは「本当はどうしたいと思ってるの?」という言葉を使ってみるとかなり会話がラクになると思います。

 

 

もっと言うと、「それの何があなたにとって大事なの?」というような「モノ・コト」ではなくて『価値観』について引き出すほうが望ましい(下手に「コト・モノ」を限定すると、本来かけなくてもいい制限がかかるかもしれない)のですが、それは上級クラスになるので、そこまでしなくて良いと思います。

 

 

上記のような接し方をしただけでも、相手にはかなり「聞いてもらえた感」を与えることができスッキリしてもらえると思います。

 

 

人間は、他人からのアドバイスはほぼ聞かない生き物です。聞いたとしても、自分の取り入れる時点でかなり自分流にアレンジします。

 

でも、自分で気づいて、自分の価値観に基づいたものであれば、ムリなく変化を促せます。

 

 

そういう人間の心の仕組みを創ったのも神さまのはずです。私は、こういう行動をとることも「隣人愛の表れ」だと思えてならないです。

 

 

当時のパリサイ人たちからみたら忌むべき存在のサマリア人でも、目の前に傷ついている人がいたら介抱してその傷の手当てをする。「行ってそのようにしなさい」とイエス様は私たちにおっしゃられた。 

 

私の考え方は福音をないがしろにしているのでしょうか。聖書を見くびっているのでしょうか。

 

今の私にはわかりません。

 

もしかしたら、これは私がクリスチャンとして未熟、もしくはクリスチャンですらないから起こされている想いなのかもしれません。私は本当にわかりません。

 

■ やってみて、そして教えてください

 

上でお伝えしたことは、すぐ実践できます。ちょっと親しい人や、教会での交わりの時などにやってみてください。 

 

それから、改めて考えて、そして教えてほしいです。これは神の目に麗しい事だと思うのか、それとも悪魔のささやきでしかないのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

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