私がお葬式の仕事をしながら考えていたこと~「善人なおもて往生す。いわんや、悪人をや」~
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「…それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、・・・されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり…」
浄土真宗には白骨の御文、というものがある。
これが始まれば、読経が終盤だとわかる。
私の実家は真言宗だったが、私はそこに救いを見いだせなかった。住職である父親自身が、いまだに自分のしていることを「哲学」として扱っているせいでもある。
それだったら、まだ浄土真宗のほうが納得できると心のなかで思っていた。浄土真宗は、実に構造がキリスト教プロテスタントとよく似ていると聞いていた。
だから、『似て非なるとはいえ似ているもの』と認識していた。少なくとも真言宗よりかは親近感を持っていた。
だから、なんとなく浄土真宗の読経を聞くのが好きだった。
忙しすぎて、ほとんど聖書が読めていなかったから、『浄土真宗に触れては神さまのことを思うようにしよう』と自己流で考えるようになった。
『キリスト教を求道しつつも他信仰に寛容な私』を演じたかったのかもしれない。
だから、浄土真宗の《白骨の御文》の一部を、私の「お寺さんノート」に書いた。
「お寺さんノート」は住職の宗派やお茶の好み、いつも要求されることなどの覚書を集めたノートだ。
以前、聖書の言葉を書いたカードをバインダに挟んでいて、「個人的な宗教のことを挟むのはどうかと思うぞ」と先輩に言われたこともあるかもしれない。
これが、仏教だったら何も言われなかったのではないか。
そんな風に思った。
そんなこともあり、私はだんだん心の中でも自分に嘘をつくようになっていった。
「善人なおもて往生す。いわんや、悪人をや」。
浄土真宗由来のこんな言葉を繰り返していた。
私は罪人だ。そして神さまを知っている。そして、心の奥の空虚を神さまに満たしてもらった。
神さまは、寛容な方だから私を赦してくださるはずだ。それ以上に必要なモノは何もないはずだ。
私は、キリスト教信仰をそう思いつつ、心の中ではどこか「神なんて信じてる自分」が恥ずかしかった。
進化論は証明されてると信じていたし、聖書の成り立ちも良くわかっていなかったから、私はだんだんと「自分は、明らかにおかしいことを信じている世間知らずのバカにしか見えないんだろうな…」と思うようになった。
このころから、私は信仰をはき違えていったのかもしれない。
いや、本当は大学を卒業して「イエスキリストを信じます」と口に出した時から、違和感をぬぐえていなかった。
それでも、私は「自分はどこか大丈夫」だと思っていた。
それは、私がプロテスタントの「信仰のみに頼る」。「信仰すらも神から与えられるものだから」という立場に立っていたつもりだったから。
「信仰のみに頼る」けれど、「信仰する対象を信じ切れていない」。
私は、自分が立つ場所を見失いかけていることに、自分自身で気づいていなかった。
(続く)