私が葬儀の仕事をしながら考えていたこと~火車が来る~
徳島県は「真言宗」が一番多い。その次が「浄土真宗西」で、次が「東」。これらのことを「モントさん」と呼んでいた。あとはほぼ同率で「神道」「浄土宗」「禅宗」「法華宗」「創価学会」だろうか。大本教やキリスト教はまれだった。
真言宗では、故人さまはお通夜の段階では「病人」だという。
枕元のお線香とろうそくを絶やしてはいけない。だから、見張ってるならずっとつけていてもいい。しかし、火事になるとたまらないので「眠るのであれば消してください」とお伝えする。大体の人は消して寝る。
私が「線香とろうそくを絶やしてはならない」と聞いたのは、小学生のころだった。れ力を持った先生が、妖怪と戦っていくマンガ「ぬ~べ~」の知識しか持っていないが、人と言うのは面白いモノで、得てして自分が一番最初に聞いた説を信じる。
ぬ~べ~では、「通夜のろうそく」を消してはいけないのは「火車」という地獄の番人が死体に入り、そのまま魂ごと地獄に連れさってしまうからだと言っていた。
だから、私もそれをなんとなく信じていた。
『火車がくる…。』
おそらく、目にみえてそんな現象が起こらないことは知っていた。
でも、見えないところで『何か』は起こっているはずなのだ。この人の魂は、どこかへ行くはずなのだ。
…一体、どこへ行ったのだろうか。
私はこのとき『キリスト教』を求道中だった。だから、キリスト教のキの字も知らなさそうなこの故人とその家族はみな地獄にいくのだろうか、と苦悩していた。考えては何度も『いや、それは私にはわからないことだ。死ぬ瞬間に故人がなにを考えていたかなんて。高ぶるな。私に人を裁く権利は与えられていない。』そう言って打ち消す。
何度も同じことを繰り返した。
この善良そうな人々の魂はどこに行くのか。いや、私は今表面を見ているだけだから、決して善良とは言い難い存在だろう。
人間とはかくも罪深い生き物だと、私は確信したから教会に通っていたのではないか。では、どうしてこんなに罪深い生き物なのに、その「罪」に無自覚で笑っていられる人間がこんなにも多いのだろうか。
間違っているのは私のほうなのではないか…?
私の抱く不安は、徳島県に住む多くの人間に、通じないことが多かった。周りの人間に漏らしても、理解されない可能性の方が高い。
火車は、来ているのだろうか。
私は何度も、そんなことを考えていた。
(続)