私が葬儀の仕事をしながら考えていたこと~親族が2人のお葬式~
親族がたった2人のお葬式。
そんなお葬式の担当になると、お通夜から式から火葬場接待まで全部一人でおつきあいする式、もないではなかった。
そんなときに限って、出棺時間が遅かったりする。午後1時の窯しか予約が取れないと、開式はセオリー通りに行っても12時である。
8時に出社して、布団を上げて、外の掃除をして、準備して取り掛かってもとてつもなくゆるやかだ。
仕方がないので、「門出の膳」なるお弁当を勧めたりする。(地域によっては「カドイレ」と発音するらしい。故人さまと一緒に食べる最後のごはん、ということで、出棺まで時間があるときはお弁当を勧めるのだ。)
もちろん会社の売り上げになるからであるが、色んな意味でニクい制度である。
「なくてもええわ!」と豪語していた喪主さまが、いざ当日が親族が集まってきて時間を持て余してたりすると「な、なんかちょっとつまむもんとかないんか・・・?」と言ってくることも少なくない。
それと同じくらい、「前日に『明日は朝ごはんを用意してますよ』と親族に通告することを忘れて、当日の朝壮絶に余る」という事態を引き起こしてくれたりもする。
ニクい制度である。
このお弁当を2つ。お茶と、インスタントではあるがあたたかい赤だし味噌汁もお出しする。
「故人さまとの最後のお食事」というお題目には似つかわしくないくらい、「中年の夫婦がフツウにお弁当を食べている日常風景」だ。
焼香が長引くこともないので、遅れるはずもない。
なんのことはなく出棺する。
こういう場合、私は先に車にのりこんで火葬場に先回りしている。
喪家様が霊柩車から降りるのを手伝って、故人さまが炉に入ったら、焼香を促し、待ち時間は控室に案内する。
だいたい「火葬料金はいつ払うんで?」と聞かれる。「後ほど火葬場のスタッフの方がおいでになりますので、そのときに」と伝える。
インスタントのコーヒーをお出しして、「また後ほど参りますし、何かありましたらお声かけください。近くにおりますので」と伝えて部屋を出る。
待ち時間はだいたい火葬場の控室に遊びに行く。なんとも男臭い空間だが、待ち時間はヒマなのでしょうがない。
今だったらSNSがあればあっという間につぶれる時間かもしれないが、その時私はまだ何もそういったものに手を出していなかった。ガラケーだったし。
ご遺体と言うのは、小柄であれば早く焼けるというモノではなく、ご遺体が大きいほうが妙に早かったりする。一説によると体脂肪の具合らしいが、真実は知らない。
そんなときに見上げる空はいつも青かった。煙が白くて、私は「サイハテ」という歌を思い出していた。
雲一つないような
むせるよな晴天の今日は
悲しいくらいにお別れ日和で
...あのご遺族がどんな気持ちかは、私にはわからない。長い間疎遠になっていた人の葬儀だ。もしかしたら自分の人生を逡巡しているかもしれない。
ああ、生まれ育ったわけでもないこの土地で最期を迎えたこの故人の魂は、どこにいるんだろう。
この穏やかさが怖かった。
発狂しそうになるくらい、空の青さが胸に刺さった。
こんなに穏やかなのに、どうして、私の魂は空虚なんだろう。
この人の魂はどこへ行ったのだろう。
このままであれば、私はどうなってしまうんだろう。
こんなに穏やかで、こんな仕事の日もあるのに、どうして私はそれでは足りないと思ってしまうんだろう。
このまま死んでもいいのだろうか、私は。
ここに居続けて、答えの出ない自問を繰り返す日々を送ったままでいいのだろうか。
「コーヒーのお替りいかがですか?」
20分くらい明けて、控室を覗いてみる。ここまで丁寧にサービスすることもないのかもsれないが、手持無沙汰なのでやれることはやっておこうと思った。
「ホテルに泊まりたいんだけど、どこか知らないかしら?」
思わぬリクエストに、焦る。
「本社に連絡しますので、お待ちいただいてよろしいですか?」といって事務所に電話をかける。
「提携してるホテルがあるから、こちあらで予約を取る。部屋の条件を聞いてほしい」と言われる。
なんと手厚い。さすがサービス業だ。物申したくなる仕組みはいっぱいあるがやはり歴史が構築してきたものというのはすごいなと、そんなことを考えた。
(続く)