存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

「W.W.J.D(What Would Jesus Do?)」という言葉は他人に使っていいのだろうか

  

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こんにちは、かすがです。

 

四国の小さな寺で生まれ育った末、クリスチャンになったアラサーです。既婚。

 

 

このブログを読まれる方は、おそらくクリスチャンでいらっしゃることと思います。(クリスチャンでない方が読んでくださっていたとしたらすみません、今日はクリスチャン向きの話題です)

 

 

さて、みなさんは「W.W.J.D」という言葉をご存知でしょうか?クリスチャングッズに印字されることが多い言葉なので、ご存知の方も多いかとは思います。自分の聖書カバーに印字されたのに5年感意味を考えなかった私みたいな人もいるかもいしれませんが。 

 

今日は、この言葉の使いどころについて思ったことをお話します。

 

>>記事の途中でスミマセン。マンガから聖書を語るウェブサイトを作りました。よかったら読んでください<<

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(↑ バナーをクリックすると外部リンクに飛びます)

 

■「W.W.J.D」ってなんぞや?

「W.W.J.D」とは、「What Would Jesus Do?」の略で「神(イエス)ならどうする?」という意味なんだそうです。

 

  

私はこれを、「自分が自分に対して投げかける言葉 / 他人に問いかけてもあんまり意味がない言葉」だと認識していました。

 

 

ですが、ごくたまにこの「W.W.J.D」を他人に向かって聞いている人をみかけるようになりました。私はその行動への違和感がぬぐいきれません。

 

 

 ■ 「馬を水辺に連れて行っても水を飲ませることはできない」

 

私の通うプロテスタント教会(福音派)では、「『人と自分』ではなく『神と自分』の関係が大事である」ということを色んな人から聞かされました。

 

 

「馬を水辺に連れて行っても、水を飲ませることは人間にはできない(You may lead a horse to the water, but you can't make him drink)」というイギリスのことわざををご存知でしょうか?

 

これは、心理学や子育て・部下教育の本などにもよく引用されいることばです。「本人にその気がないのに、周囲の人間が気をもんだり強制しても無駄である」というような意味です。

 

私はこれと同じような話が聖書の最初の方にある(と思っています)。

 

それは「アダムとイブ」の話しです。神に似た姿として造られた最初の人「アダム」。そして、その妻「イブ」。彼女たちは、サタンの巧妙な惑わしによって神さまとの約束を破ってしまいます。

 

そこから人間に「罪」の性質が入り込み、「死」が訪れるようになった、額に汗して働かなくてはならなくなった、女は子を産む時に痛みを感じるようになった……と聖書には書かれているのですが、ここで誰しもが抱くギモンがあります。

 

「神が全知全能なら、なんでアダムとイブに『自分に従いきる』というメンタリティを備えなかったのか?」

 

というギモンです。この疑問への解答は、だいたい「神は愛なので、その愛ゆえに人間に『自由意思』を与えた」というものが返されます。

 

これを読んでいる方がこれに納得できるかできないかは置いといて、私自身はこの説明を採用しています。この逸話と「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」というコトバは、同じことのように感じます。ですから私は、「馬を水辺に連れて行っても、水を飲ませることは人間にはできない」のは『神の作った愛の形で、神の作ったこの世の理なんだな』と思うのです。

 

 

「他人に行動や考え方の変化を強要することは(究極的には)できない」

→「人間は、結局他人のアドバイスなどは基本的に聞き入れられなくて、自分が納得できる解釈でしか取り入れることができない」

→「だから、現在のプロテスタント教会はそういう人間心理を踏まえたうえで『聖書を一人一人がそれぞれ読み、神との個人的な関係を築いていくことが重視されている』構造になっている」

 

 

……というのが、今のところの私の考えです。

 

 

ここで問題です。「WWJD」という言葉は決して「アドバイス」ではなくて「あくまで質問」です。それにもかかわらず、なぜ私はこの言葉を「自分が自分に対して投げかける言葉 / 他人に問いかけてもあんまり意味がない言葉」だと感じたのでしょうか。

 

少し考えてみたところ、こんなことを思いつきました。

 

■ 『イエスならどうする?』と私が考えているか当ててみて?

 

おそらく、「イエスならどうする?」という言葉が他人から投げられた場合、「『イエスならどうする?』と私が考えているか当ててみて?」という問いかけに聞こえるからなんだと思います。

 

考えられる理由は2つです。

 

・学校などの教育機関がそいういう解答の導き方を行ってきた

・相手と十分な信頼関係を築けていない

 

 

私の人生を思い返しても、「〜〜だったらあなたはどうする?」と質問されたことは何度もあります。私はだいたい『この人が納得する答えをださなくては』と考えて答えていました。

 

例外は「この人の前でだったら安心して自分の想いを打ち明けられる」と感じる人から聞かれたときです。そうい場合は素直に自分の考えや不安を言葉にすることができました。

 

 

実際、私がみかけた「イエス様ならどうすると思う?」というやりとりは不幸にも両方の条件が揃ってしまっていたように見えました。

  

問いかけられていた相手は、「W.W.J.D?」を負担に思い、気に病まれていたことがのちのちわかったのです。

  

■ イエスならどうするのだろう?

 

クリスチャンは、確かに「神」とその神の霊感によってかかれた「聖書」という《絶対的な基準》を持っています。

 

ですが、その「絶対的な聖書」ひとつとっても、その内容は非常に多岐にわたり深淵で、かつ「個人の裁量に解釈を委ねられている部分」があることも踏まえなくてはならないと思います。

 

聖書には、「一つの神(イエス)を救い主として信じていたとしても与えられた役割はそれぞれ違うものである」と、『多様性を肯定している』ととれる箇所があります。


そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。 (コリント人への第一の手紙/ 12章 3節~7節)

 

またイエスは、十字架刑で死に3日目に復活したとき「マグダラのマリアには塩対応したのに、疑い深いトマスにはちょっと濃いめの対応」をしました。私は、これを「イエスは相手の信仰の状態を知っていて、それぞれにふさわしい対応をした」と教わりました。

 

つまり、イエスは「その人の状態をよく見て、ふさわしい時をみはからい、それに適していると思われる対応をする」ことを是とされている、と思うのです。

 

もちろん、他人が他人のことを理解しきるのは不可能なので、そこは「その人にとってふさわしい対応ができますように」とすべて知っているであろう神さまに対して祈ることが必要になってくる……のだと思っています。

 

 ■ きっとその言葉を投げかけた人も、「その対応がふさわしい」と思ったのだろう

 

先ほどお伝えしたように、聖書は多様性を肯定していると私は考えています。ですから「イエスならどうすると思う?」と質問した人の行動もまた、否定されるものではないと思います。

 

短期的な目線で見たら効果的な質問ではなかったかもしれませんが、もしかしたら遠い未来、その言葉がバタフライエフェクトを起こす可能性もあるかもしれません。神の計画は遠大で、人間に理解しきることは不可能ですから。

 

ですが、それと同時に「神がすでに聖書のなかで語られていることは、神が与えた自由意思と知性のもと行動してもいいのではないか」とも私は考えます。

 

私自身は

エスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(マタイによる福音書22章37節~39節)

 

という言葉にならいたいと思います。ですから「イエスならどうすると思う?」という質問を「自分に与えられた精神と思いとに応じて、また自分がされたら嬉しいように」使用したいと思っています。

 

いまのところ、私の考える「W.W.J.Dを発動させても良い条件」というのはこういうものです。

 

・相手と信頼関係を築けている(ふだんから強制的/否定的なコミュニケーションをとっていない)

・相手の状態がそれを受け入れられる精神状態である(自己受容ができていると感じられる)

 

見落としている前提があるかもしれませんが、言語化するのはむずかしいので、このブログではこのへんで勘弁してやってください。

 

 ■ むすび

かなり時間をかけて細かい話をしてしまいました。ずっと心の中で保留にあったもののエネルギーと能力が不足していてコトバにできなかった話なので、今回書けてよかったです。

すっきりしました。

 

 

↓クリスチャンが悩みがちな「他者と自分との線引き」についてのイロイロが書かれている本。私はキリスト教書店で購入しましたが、店員さんに場所を聞くとすぐに案内してもらえたのでコンスタントに売れている本なのではないかなと思いました。

 

↓クリスチャン向けの本という訳ではありませんが、時代に求められた心理学「アドラー」の思想について書かれた本です。私はアドラーの考え方に触れてとても人生が楽になりました。

 

↓「嫌われる勇気」の続編です。嫌われる勇気と同様、対話形式で読みやすいです。「他人に対してどうしてもドライ接することができない」という人は一度読まれてるとおもしろいのではないでしょうか。

 

 

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