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「W.W.J.D(What Would Jesus Do?)」という言葉は他人に使っていいのだろうか

  

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こんにちは、かすがです。

 

四国の小さな寺で生まれ育った末、クリスチャンになったアラサーです。既婚。

 

 

このブログを読まれる方は、おそらくクリスチャンでいらっしゃることと思います。(クリスチャンでない方が読んでくださっていたとしたらすみません、今日はクリスチャン向きの話題です)

 

 

さて、みなさんは「W.W.J.D」という言葉をご存知でしょうか?クリスチャングッズに印字されることが多い言葉なので、ご存知の方も多いかとは思います。自分の聖書カバーに印字されたのに5年感意味を考えなかった私みたいな人もいるかもいしれませんが。 

 

今日は、この言葉の使いどころについて思ったことをお話します。

 

 

■「W.W.J.D」ってなんぞや?

「W.W.J.D」とは、「What Would Jesus Do?」のことで「神(イエス)ならどうする?」という意味なんだそうです。

 

 

クリスチャンとは「イエスが救い主である」ということを信じて受け入れた人のことを指します。

 

一般的にキリスト教の信仰と言うのは「信仰義認」というコトバで説明されることが多いです。なにか修行したり善い行いをしたり献金をしたりすることで救われる、と考えるのではなく、ただ「信仰と恵みにより救われる」と考えるのがキリスト教の大きな特徴です。

  

「じゃあなんで『イエスならどうするだろう?』とか考える必要があるの?」と思われるかもしれませんが、それはたぶん、『イエスがキリストであると受け入れた後は、多くの人が自然と『イエスに従う』ということを行いたいと思うようになるから」なんだと思います。

 

自分が愛する人の理念に共感するならば、それに追随したいと願うのは人間の自然な心の動だと思います。

 

 

たとえ何かを信じていたとしても、人生は苦しいことや不安なことがとても多いです。そんなとき「イエスならどうするかな?」と考えることは、大きな心のよりどころになります。

 

 さて、「WWJD」の話しにもどります。

 

私はこれを、「自分が自分に対して投げかける言葉 / 他人に問いかけてもあんまり意味がない言葉」だと認識していました。

 

 ■ 「馬を水辺に連れて行っても水を飲ませることはできない」

 

私の通うプロテスタント教会(福音派)では、「『人と自分』ではなく『神と自分』の関係が大事である」ということを色んな人から聞かされました。

 

 

「馬を水辺に連れて行っても、水を飲ませることは人間にはできない(You may lead a horse to the water, but you can't make him drink)」というイギリスのことわざををご存知でしょうか?

 

これは、心理学や子育て・部下教育の本などにもよく引用されいることばです。「本人にその気がないのに、周囲の人間が気をもんだり強制しても無駄である」というような意味です。実は、これと同じような話が聖書の最初の方にあります。

 

それは、あの有名な「アダムとイブ」の話しです。神に似た姿として造られた最初の人「アダム。そして、その妻イブ。彼女たちは、サタンの巧妙な惑わしによって神さまとの約束を破ってしまいます。

 

そこから人間に「罪」の性質が入り込み、「死」が訪れるようになった、額に汗して働かなくてはならなくなった、女は子を産む時に痛みを感じるようになった……と聖書には書かれているのですが、ここで誰しもが抱くギモンがあります。

 

「神が全知全能なら、なんでアダムとイブに『自分に従いきる』というメンタリティを備えなかったのか?」

 

というギモンです。この疑問への解答は、だいたい「神は愛なので、その愛ゆえに人間に『自由意思』を与えた」というものが返されます。

 

これを読んでいる方がこれに納得できるかできないかは置いといて、私自身はこの説明を採用しています。この逸話と「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」というコトバは、同じことのように感じます。ですから私は、「馬を水辺に連れて行っても、水を飲ませることは人間にはできない」のは『神の作ったこの世の理なんだな』と思うのです。

 

 

「人間に行動や考え方の変化を強要することは(究極的には)できない」→「人間は、結局他人のアドバイスなどは基本的に聞き入れられなくて、自分が納得できる解釈でしか取り入れることができない」→「「だから、現在のプロテスタント教会はそういう人間心理を踏まえたうえで『聖書を一人一人がそれぞれ読み、神との個人的な関係を築いていくことが重視されている』構造になっている」……というのが、今のところの私の考えです。

 

 

ここで問題です。「WWJD」という言葉は決して「アドバイス」ではなくて「あくまで質問」です。それにもかかわらず、なぜ私はこの言葉を「自分が自分に対して投げかける言葉 / 他人に問いかけてもあんまり意味がない言葉」だと感じたのでしょうか。

 

少し考えてみたところ、こんなことを思いつきました。

 

■ 『イエスならどうする?』と私が考えているか当ててみて?

 

おそらく、「イエスならどうする?」という言葉が他人から投げられた場合、「『イエスならどうする?』と私が考えているか当ててみて?」という問いかけに聞こえるからなんだと思います。

 

それは、学校などの教育機関がそいういう解答の導き方を行ってきたことと、

 

「W.W.J.D」を発する側の人間性が「この人はそういう問いかけをする人だ」と思わせるだけのものを持っているから―――ひいては「話し相手と十分な信頼関係を築けていないから」だと思うのです。

 

私自身、クリスチャンではない方ですが似たような質問をされたことがあります。そのとき私は無意識に『この人が納得する答えをださなくては』と考えていました。

 

おそらく、「今までの教育のたまもの」と「その人の前で安心して自分の想いを打ち明けられるほどその人と仲良くなかったから」なのです。

 

また実際、クリスチャンの方が他人にむかって「イエス様ならどうすると思う?」という問いかけをしているのも見たことがあります。(これはリアルではなくてネット上でのやりとりではありますが)

  

問いかけられていた相手は、「イエスのことを信じているけど、希死念慮に悩まされるのは変わらないし、日々の生活が辛い」いうようなことをネットに書いていたようでした。そこに、ある方が「イエス様ならどんな風に考えるかな?」みたいなことをコメントしていたのです。

 

私は、たまたま通りすがりのようにそのやりとりを見ただけなので「ああ、お互いに信頼しあってるならこういうやりとりもアリなのかもな」と思いました。 

 

ですがのちに判明したのは、その時問いかけられた方は「W.W.J.D」を負担に思っていたということでした。

 

■ イエスならどうするのだろう?

 

クリスチャンは確かに「神」と、その神の霊感によってかかれた「聖書」というある意味「絶対的」と言える基準を持っていますが、聖書に書かれていることは非常に多岐にわたり、深淵で、かつ(物理的な量も多いのも事実です。1日1章読んでも完読するのに3年かかる)「どうとでも解釈できる部分」があることも充分踏まえなくてはならないと思います。

 

聖書は、「一つの神(イエス)を救い主として信じていたとしても与えられた役割はそれぞれ違うものである」と、『多様性を肯定している』ととれる箇所があります。


そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。 (コリント人への第一の手紙/ 12章 3節~7節)

 

またイエスは、十字架刑で死に3日目に復活したとき「マグダラのマリアには塩対応したのに、疑い深いトマスにはちょっと濃いめの対応」をしました。私は、これを「イエスは相手の信仰の状態を知っていて、それぞれにふさわしい対応をした」と教わりました。

 

つまり、イエスは「その人の状態をよく見て、ふさわしい時をみはからい、それに適していると思われる対応をする」ことを是とされている、と思うのです。

 

もちろん、他人が他人のことを理解しきるのは不可能なので、そこは「その人にとってふさわしい対応ができますように」とすべて知っているであろう神さまに対して祈ることが必要になってくる……のだと思っています。

 

 ■ きっとその言葉を投げかけた人も、「その対応がふさわしい」と思ったのだろう

 

先ほどお伝えしたように、聖書は多様性を肯定していると私は考えています。ですから「イエスならどうすると思う?」と質問した人の行動もまた、否定されるものではないと思います。

 

短期的な目線で見たら効果的な質問ではなかったかもしれませんが、もしかしたら遠い未来、その言葉がバタフライエフェクトを起こす可能性もあるかもしれません。神の計画は遠大で、人間に理解しきることは不可能ですから。

 

ですが、それと同時に「神がすでに聖書のなかで語られていることは、神が与えた自由意思と知性のもと行動してもいいのではないか」とも私は考えます。

 

私自身は

エスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(マタイによる福音書22章37節~39節)

 

ということばにならいたいと思います。ですから「イエスならどうすると思う?」という質問を「自分に与えられた精神と思いとに応じて、また自分がされたら嬉しいように」使用したいと思っています。

 

いまのところ、私の考える「W.W.J.Dを発動させても良い条件」というのはこういうものです。

 

・相手と信頼関係を築けている(ふだんから強制的/否定的なコミュニケーションをとっていない)

・相手の状態がそれを受け入れられる精神状態である(自己受容ができていると感じられるなどなど)

 

見落としている前提があるかもしれませんが、言語化するのはむずかしいので、このブログではこのへんで勘弁してやってください。

 

 ■ むすび

かなり時間をかけて細かい話をしてしまいました。ずっと心の中で保留にあったもののエネルギーと能力が不足していてコトバにできなかった話なので、今回書けてよかったです。

すっきりしました。

 

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