存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

私は怨霊になったことがある。~敵もまた、神の駒

私は怨霊になったことがある。

 

 

怨霊。おんりょう。

 

 

源氏物語で言うところの《六条御息所》である。

 

 

怨霊になった、といっても私は自分の意思で生霊になって誰かを呪ったわけではない。

 

結果的になってしまい、

 

その怨念に自分がからめとられてしまい、自分で自分をコントロールできなくなったことを「怨霊になった」、と表現しているにすぎない。

 

 

そのとき私はクリスチャン求道中で、今は洗礼を受けてクリスチャンになっているわけだから当然「スピリット」や「霊性」を信じている。

 

そう思うから、そういう「スピリチュアル」な表現を使っている。

(日本に蔓延してるスピリチュアルとは少し違うかもしれない)

 

 

あれはなかなかにすさまじい体験で、そして貴重な体験だったと思う。

あのどうしようもないモノを通り過ぎなければ、私は救われなかったと思うからだ。

 

それまで私の人生には、特に大きな悲劇などはなかった。

アトピーに苦しんでいたとか、死にたいと思ったとか、そんなことはあるが、そこまで劇的ではない。

 

 

全部「等身大」の苦しみで、他人にシェアするにはインパクトが弱すぎる出来事ばかりだった。

 

 

そんな自分の「等身大の苦しみ」によりそってくれるのが「キリスト教」の示す神の存在だったから、私はクリスチャンの道を求道した。

 

 

そこで救われたと思った。

にもかかわらず、私はそこからまた落ちてしまった。

 

その時に怨霊になったのだ。

 

 

これは、私にとってどうしようもない悲劇になった。でも、今は良かったと思ってる。あんな「どうしようもないどん底」からでも救われることを体験できた。

 

自分が「救いようのないゲス」にすぎないのに救われた、という現実。

 

私は弱い。

だから、強い証しが必要だと思い体験させられたのかもしれない。

 

 

「敵もまた、神の駒」

 

 

という言葉がリフレインする。

 

 

 

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