元葬儀屋寺娘のクリスチャンが感じる、仏式葬儀とキリスト教式葬儀の違い
こんにちは、かすがです。
私、新卒で勤めた会社は葬儀社でございました。(「葬儀屋」という響きの方がなじみがあると思いタイトルはそう書きましたが、現在はそういう言い回しは好ましくないらしく、本文中では「葬儀社」とさせていただきます。)
私の担当は、喪家様の湯茶接待や式中の親族・会葬客接待など。いわゆる「雑用係」でありました。
故郷である徳島県では、圧倒的に仏式・・・それも真言宗が多く、二番目が浄土真宗(西)の式でした。(徳島は弘法大師[空海]ゆかりの地ですので・・・)
この会社に勤めていた時、私は求道中。(大学時代教会に通っていて、「イエス様を主と信じます」と口で言い表した状態(信仰告白はした状態)でした。故郷に戻って、どこで洗礼をうけようかなと考えながら社会人生活を送ろうとしていました)
ですから、やっぱりごくたまーにキリスト教葬儀が入ると「気になるなー」と思っていました。
(キリスト教葬儀は数が少なくイレギュラーが多い為か、新人に接待が回ってくることはめったにありませんでした。また、多くの人が教会で挙げるためか、会館に来て式を挙げるパターンも少なかったです。)
今日はそんな中でも私が感じた「キリスト教葬儀」と「仏式葬儀」の違いをお話ししてみようかなぁと思います。
■ お坊さんと信徒、牧師と信徒の距離感はあきらかに違う
(私が「一番好きな讃美歌はどれ?」と聞かれると、一番最初に思い浮かんでくるのが、この「主よみもとに近づかん」です。「お葬式の歌やなw」と笑われますが、葬式の仕事をしていたのも「死」が自分にとって身近なテーマだったので、自分のなかでは納得してます。あと、キリスト教は「洗礼」「結婚」「葬儀」は似た感じの曲でカバーできる精神性を持ってると感じてます)
徳島は本当にキリスト教葬儀の数自体が少なかったので、ものすごく少ないデータで主観的なことしか言えませんが、
一番最初に感じたのはこれです。
「お坊さんー信徒・牧師ー信徒の距離感はあきらかに違う」。
まず、仏式葬儀の場合。式を勤める僧侶は、専用のお部屋にお通しさせていただきます。喪主様に代わってお接待させていただくため、出すお飲物の器も一番いいモノを使用します。
そして、喪家様のほうが、僧侶にあいさつに来ます。話しも「今日はよろしくお願いします」程度な感じです。お通夜(式の前日に行う前夜式的なもの。真言宗では「通夜」と言う。夜行う場合が多い)の場合は、次の日の告別式に向けて「戒名」を考えるため、故人のちょっとした話をこの場ですることも多かったようです。
ですが、牧師の場合は、お部屋にお通ししても即親族の部屋に向かいます。私は教会に通っていたので「まぁ信徒との距離感を考えれば当然だよな」と納得はしており、そういう感じが好ましく思えた反面、接待側としては牧師にウロウロされると若干困る感じも覚えていました。
(牧師先生は基本的にスーツだし、信徒の部屋に入ると完全に見分けがつかなくなりますし)
こう言った点では、創価学会の「友人葬」もそんな感じでしたね。指揮を勤める先生はスーツで、ほぼ常に喪家と一緒に過ごす。
これはこれで、こっちがアレコレしなくてもよかったため楽でしたが。
■ 焼香と献花の違い
日本仏教式葬儀・告別式の流れはざっくりこんな感じ。
ーーーーーーーーーーー
読経
↓
読経中に焼香案内。焼香開始
↓
閉式(このあたりに喪主挨拶などはさむ)
↓
親族や特別にお別れしたい方が棺のそばに集まってお花手向け
↓
なんやかんやしながら出棺
ーーーーーーーーーーー
カンタンそうに見えますが、葬儀社サイドはこのとき死ぬほどピリピリしてます。
式中に焼香が終わらなければ、出棺が遅れることになり、基本的にはそれはNGだからです。
ですが実際の葬儀というモノは親族の数はおろか、会葬者の数などまったく読めません。
(一応、故人や喪主様の生前のお付き合いの程度によってある程度数を予想してはいるのですが、故人が若くしての急な死だったりするともうやばたん)
接待側としては、式中動けない喪家の代わりに会葬者様に会葬お礼をもれなくお渡しする役割がありますので、それを急きょ追加発注したりということに気も遣いながら、
焼香が定められた時間内に終わるように人の流れを促したり香炉の数を増やしたりすることに常に気を配ってなくてはいけないのです。
意外とイロイロ仕事があるんですよ・・・。私は常にパンク状態でした。
で、キリスト教葬儀の場合は、この「読経」のところが聖歌だったり牧師先生のお話しだったりするのでしょうね。
そのへんは親族や宗教者におまかせしておけばよい話しですのでよく覚えていません。葬儀社の雑用サイドとして一番大きな違いは「焼香」が「献花」になるところだったと思います。(準備があるからね、準備が・・・)
この献花っていうのがまた・・・ちょっとなんともいえず厄介で・・・
なんというのでしょうか、流れがよくないんですよね。なんとなくですけど・・・。
焼香は「合掌→焼香→また合掌」ってリズムが作れるんですけど。それが献花だと・・なんつうか・・・人の流れがバラばらになるんですよね。
ほら、祭壇にむかって一礼とか、キリスト教葬儀だったらまずしないですし。
会葬者からしてみたらそんなことどうでもいいと思うかもしれないんですけど、365日葬儀してる側の人間は、「自分的葬儀美学」みたいなのを持ってる人もいるんですよ。人の流れがキレイでないとちょっと失敗だっ~、みたいに後で言ってくる担当者がいるんデス。
今思えば「知るか」って話なんですけど。
ですから、葬儀接待担当者としては「人の流れがうまく作れない式になる可能性が高い=あとで上司にどやされる可能性の高い式」
と認識してました。
なんか本末転倒っぷりがうかがえて笑えますね。若かったんでカンベンです。
■ 仏式は暗くて、キリスト教式は明るい?
よく「仏教とキリスト教ではあの世の概念がちがうから、キリスト教式は明るい」みたいに言われますけど、
実感としては「そうでもないだろ」と思います。
こっちに残された人はそれなりに悲しんでますよ。やっぱり。
一階は仏式葬儀、二階はキリスト教式葬儀、みたいな日もありましたけどね。そんなに大きな違いはないですよね。私も主人が死んだら悲しいと思います。ひとまず(のつもり)とはいえ、お別れですから。
■ クリスチャンで葬儀屋に勤めるのはおススメか?
私、お葬式の仕事好きでした。大変なこともあったし、会社にはイロイロ言いたいこともあったけど、家族にやめろやめろと言われながらも(1年目が終わるころには言われていた。そこから+1年半ねばった。後輩は3人中2人が1年足らずでやめていくリズムだった)やってたのは、やっぱり肌にあってると思ったから。
キリスト教の葬儀とかにもたまに関われるかなって期待もあったし。でも、今思うのは「田舎の葬儀社への就職はおススメしない」です。
必ず、合掌とか礼拝とかの儀礼をさせられる場面が出てきます。
拒否してやっていけるならいいですけど、この日本で一神教への理解がそんなに進んでるとは思いません。多くの人の考える「寛容さ、懐の広さ」は、クリスチャンの基準とはあきらかに違います。
神戸や東京と言ったところには「キリスト教葬儀専門」の会社もあるようですね。そういうところだったらいいかもしれません。なかなか壮絶な仕事ですよ。行き着く暇のない人生を歩きたいひとはいいかもしれませんね。
大した話もできませんですが、今日はそんなところです。
雑談でしたw
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や「寺」でなくて会館で行う開館式が一般的です。
(家がそんなに広くないのと、自分の菩提寺と密なかかわりを持っていなければ寺で行うに至らないからでしょうね。料金も手間のトータルコストを考えたら開館式のほうを選びたくなる気持ちはわかります。)