「存在に耐えられない軽さ」だとは思わない
こんにちは、かすがです。
このブログのタイトルについてちょっと書きたくなりました。もし興味があればお付き合いくださると嬉しいです。
知ってる人はミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」という作品を連想するのだと思います。
このブログのタイトルは、確かにそこから拝借しました。
実は私は、その作品を読んだことも見たこともありません。ただ、高校生の時に、このタイトルだけ聞いたのです。
そして、とても気に入りました。
「存在の耐えられない軽さ」―――
どういう意味がこめられているのかわかりませんでしたが、絶妙な悲哀にみちた響きだと思いました。
そのとき私は、マンガ家になりたいと思っていました。
私のココロの奥にはずっと言い知れぬ空虚があり、埋めたくて、でも埋められる気がしなくて。こんな大したメッセージも持たない自分の、ただ「存在したい」という願いのはけ口に、マンガを描くという手段を使っていました。
そんなとき、私はACの広告を見ました。
「『いのちは大切だ』『いのちを大切に』---そんなこと、何千、何万回言われるより、『あなたが大切だ』それだけで、生きていける」
そんなメッセージのCMでした。高校生で、恋人もおらず、誰かに「私」という人間を必要とされたことがない私は、「そうかもしれない」と思いました。
だから、こういうメッセージをこめたマンガを描こうと思いました。
ストーリーはこんなでした。
主人公である男の子の【親友】が自殺してしまいます。その【親友】は、ある女の子にひそかに慕われていました。主人公は、親友の葬儀以来、その女の子となんとなく仲良くなり、好きになります。
でも、女の子はある時、好きだった人がもうこの世にいないということを再認識してしまい、どうしていいかわからずに自殺をはかろうとしてしまします。
主人公やまわりの人はイロイロ説得しようとするのですが、そんな一般論が彼女に届かないことがわかってしまい、意を決して「好きだ」と伝えます。
女の子は自分を必要だと言ってくれる存在がいるということを知り、その場に脱力します。
そんなありきたりなお話しでした。
ただ、ラストは未完成です。この形で女の子が自死をやめるとしたら、主人公の【親友】にも想いを伝えてれば死ななくて済んだのに、という方向にこの女の子が悩みだすんじゃないかと、作者である私がそこに決着をつけることができなかったからです。
でも、タイトルだけは決まっていました。それが「存在に耐えられない軽さ」というタイトルでした。ミラン・クンデラの作品からもじり、一文字だけ変えて使おうと思っていました。
この物語の【親友】は私であり、女の子も私でした。存在することに耐えられない軽さしか持ち合わせていないのに、この世に生まれてしまった自分を持て余している。
この心の奥の空虚を自分で埋めることもできなくて、それでも生きなくてはいけなくて、そんなことに疲れている。
そんな想いを抱えた少年と少女に、自分を投影させていました。
・・・時が経ち、私の考えは少し違ったものになりました。
私の危惧は、たぶん正しかったのだと思います。「あたなが大切だ」というメッセージを、ある特定の人間からの愛情に特定してしまうだけでは、私たちの長い人生に押し寄せる大量の孤独な夜に対抗できるとは思えません。
今、私は、自分のことも、自分以外のすべての人も、存在に耐えられる質量を持ってこの世に生まれてきたのだと信じることができるようになりました。
私は、大学生のとき【キリスト教】という日本人にはなじみのない(むしろ『一神教なんて不寛容だし争いのもとだし』とバカにしていたもの)に触れ、自分という人間は神さまに覚えられているんだということを受け入れ、大量に押し寄せてくる孤独な夜に耐えられるようになりました。
その時は、自分が『神さまは全知全能で、私の髪の毛の一本一本まで知っている』というチートな設定を受け入れる時が来るなんて、思っても見ませんでした。
でも、もしそうだったら。
それが本当だったら、
今の私の等身大の苦しみを知ってくれている存在がいるのなら。
それ以上に、「私の存在が許される概念はない」と思ったのでした。
信仰を持ったとしても、苦しみはあります。でも、人間は「何のために苦しむのかわからないことが一番つらい」のだと、精神科医のヴィクトール・フランクルが言うことに納得するのであれば、
「人間は一人一人神さまの計画を持って生まれ、神さまに覚えられ、愛されている」ということは、絶大な威力を発するのだと思いました。
【存在に耐えられない軽さだとは思わない】ーーー。
私も、この世に存在する誰も、存在に耐えうる質量を持って生まれて、そして死んでいくんだと、今の私はそう思っているのです。