存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

空色勾玉と白鳥異伝と薄紅天女と、人間を救おうとする神の話し。(ネタバレあるよ。2019年追記)

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(この記事は2019年11月ごろ追記と修正しました)

 

こんにちは、かすがと申します。四国の寺の末娘に生まれてなんやかんやでクリスチャンになったアラサーです。既婚子ども予定なし。

 

kasuga-1221.hatenablog.com

 

人に自分のアイデンティティを話すとき、「寺で育ったけど今はクリスチャン」というと比較的わかりやすいので話すことが多いです。で、そうすると『ああ、じゃあ仏教からキリスト教にかわったのね』と思われがちなのですが、実は自分的にはこの言い方はしっくりきません。

 

それは、自分が幼い頃より「日本仏教」に興味を持てなかったからです。なぜかというと、父である住職自身が仏教を「宗教」としてはとらえていないし、家族みんな大体そんな感じだったからです。

 

 

では、私は「世界は何でできている」と思って幼少期をすごしたのでしょうか。 今日は、古事記を中心とする「日本の神さまの話し」と、それにハマっていたにもかかわらず私がクリスチャンになった理由をちょっとお話ししてみたいと思います。

 

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■ 白鳥異伝との出会い 

 私は、小5のときにとある本に出会いました。

 

荻原規子著、「空色勾玉」「白鳥異伝」「薄紅天女」…「勾玉三部作」とあらわされるそれらは、「日本神話をベースにした日本人のためのファンタジー小説」と呼ばれていました。

 

 

 

私はまず「白鳥異伝」から読み始めました。いちおうシリーズではあると知っていましたが、3部作はそれぞれ独立していることも知ったからでした。

 

 

結果的に私は、3部作のうちでは「薄紅天女」を一番好きになりました。それも、最初に読んだ「白鳥異伝」が面白いと思ったから続けて「空色勾玉」も「薄紅天女」も読み進めたのです。

 

 

時を経て今私は、それらを否む一神教の世界に足を踏み入れています。いえ…否んではいないのかもしれません。

 

 

この作品を通して、日本で「神」と呼ばれる存在にまっとうに向き合いたいと思ったからこそ、結果、私はクリスチャンなったのだと思います。

 

 

■ この作品の世界観

 

私は、勾玉3部作の世界観が好きでした。でも、ここに描かれる「神」の存在には、終ぞ惹かれることはありませんでした。

 

(※補足:改めて読むと「惹かれることはありませんでした」というのは適切じゃないなと思います。数年かけて言語化してみたので、その辺の沼感を少しでも気にして頂ける方はよければこちらもどうぞ…!)

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だから、そんな私が私が3部作のうち一番神話性の弱い「薄紅天女」を好きになったのはある意味然るべきな気もします。

 

 

紅天女は、むしろ前作の2つでの「神」に対するあこがれを否定するために描かれた物語のようだと感じました。

 

 

今、3部作のすべてを通して考える「日本人にとっての『神』の存在」。日本神話は、「神」を否定して初めて「日本神話として成り立つのではないか」…。

 

 

…ああ、めんどくさい(笑)

 

こういう話しをすると、「日本にキリスト教が入ってきたとき『GOD』という言葉を訳す言葉がなかったか云々かんぬん…」という話しになります。

 

 

そのあたりの言及には非常にあいまいになりますが、別に宗教は賢くなければ入れないモノではありません。私が、等身大で感じていることを綴って行きたいです。 

 

■空色勾玉と「勧善懲悪」(ネタバレあるよ)

 

 まず、空色勾玉がどんな物語なのか、ということについて触れたいと思います。

 

 

読んだことのない方のためににざっくり説明します。《空色勾玉》では古事記で記されるところの「アマテラスオオミカミ」「ツクヨミノミコト」「スサノオノミコト」の神々がモデルになった登場人物で構成されています。

 

 

主人公(ヒーロー)は「スサノオ」がモデルの「稚羽矢」という少年(青年?)です。

正確には主人公は「狭也」という少女なのですが、この子は荻原先生オリジナルキャラであり、古事記・続日本書紀には明確なモデルはいません。(たぶん)

 

 

超カンタンにこの物語のメッセージを書くと、「光」と「闇」これらはもともと表裏一体なので「闇は決して悪ではない」というもののようなところにある気がします。

 

(いや、そもそもメッセージはあんまりないのでしょうが…。これで読書感想文を書こうとしたのでわかります・・・。でも、その「メッセージがないこと」が、日本神話の神である気すらするんです。それについて語りたいです)

 

 

この物語で実際にことを展開していくのはアマテラスオオミカミスサノオがモデルとなった人物なのですが、根底には「イザナミ」「イザナギ」の物語が流れています。

 

 

イザナギ男神)=光 イザナミ(女神)=闇

 

 

みたいな構成なのですが、ここで感じられるのは「西洋ファンタジーにおける光=善 闇=悪 という考え方は日本人的ではない」という思想です。

 

 

 

その証拠に、物語の序盤では狭也の村の「巫女」が豹変して沙也を殺そうと襲いかかります。

 

 

光に仕えていたはずの、清く正しいはずの巫女。それが、嫉妬に狂って主人公を殺しにかかるのです。子ども心に怖い描写でした。

 

 

そして、もう一人重要な人物であるアマテラスオオミカミがモデルである《照日大王》は、「光」の氏族ですが、その純粋さゆえにカンタンに人を殺す残虐さを持ち合わせているところも特筆すべきと思います。彼女の宮の中では、采女(宮廷官女)が穢れを清めて美しさを保つために人間を生贄にするという儀式があることが描写されています。

 

 

 

この物語の中では日本のことを豊葦原と呼んでます。豊葦原で純粋な光の氏族は(照日・月代・稚羽矢)のみで、彼らは「死」もないし老いることもありません。

 

そして他の人間は「闇の氏族」であり、「死」があるが彼らは「生まれ変わ」るという設定です。

 

 

狭也は最初は「輝の氏族」である月代の大王に見初められて宮に召し抱えられるのですが、月代が求めているのは「狭也」ではなくて「水の乙女」という狭也の魂的なものにすぎないと気づき、なんやかんやしているうちに弟の稚羽矢に出会って、彼と一緒に「光」と闇が一緒に暮らす方法をさがす…みたいな感じの展開です。

 

 

だから、最終的に狭也と稚羽矢が家族を作るという事は、イザナギイザナミの壮大な夫婦喧嘩からの和解のしるし、なのです。

 

 …と、ここまで説明していても、非常に「説明しづらい」物語です。その「説明しづらい構成」そのものがなんとも「日本人的」なのではないかと思う今日この頃です。

 

 

説明しづらいなかでもあえて一部を切り取るとしたら、私はこの物語を読んだことによって、「光=善、闇=悪 という構図はよくない」という想いを持つこととなります。

 

 

もちろん、これは空色勾玉だけではなく、同時期にハマった「るろうに剣心」というマンガも大きく影響している気がします。

 

みたいなことを言っていたのが印象的でした。

 

思春期に、好きな作品の作家がこういうことを言っていたら、それはそれは影響されます。

 

 

私はがっつりその考えが気に入り、

西洋文化=キリスト教文化=勧善懲悪」

「日本文化=清濁併せのむ文化」

 

と考えるようになりました。 

 

■ 白鳥異伝(ネタバレあるよ)

 

 

ここまでくるともう『白鳥異伝』については語らなくてもいい気もしますが、一応書いておきたいです。

 

 

空色勾玉の沙也に比べると、この作品のヒロインである【遠子】はかなりキャラ立ちしています。それもあってか、3部作の中では一番「物語」として面白く人気も高いのがこの白鳥異伝です。

 

 

この物語のヒーローである「小倶那」は、古事記ヤマトタケルノミコトがモデルです。

 

 

ヤマトタケルノミコトは有名だし、このページをご覧になっているような方はご存知だと思いますので、割愛します。

 

 

ヒロイン遠子は、三野という国の国長(町長みたいなもんかな)の娘です。そして、遠子には義兄弟(拾い子)がいます。それが「小倶那」です。

 

 

小倶那は女々しい男の子で、遠子は勝気な女の子です。小倶那はある日、視察に来た皇子ととても顔が似ているということで影武者として都に行くことを決めます。

 

 

のちのちに判明するのですが、小倶那は実は大王の子どもで、つまりは皇子と「マジで兄弟」だったということがこの物語のターニングポイントです。

 

 

なぜ捨てられていたのか。それは、小倶那が禁忌の子どもだったからに他なりません。禁忌の子ども…そう、小倶那は大王と、その実の妹・百襲姫(ももそひめ)との間にできた近親相姦の子どもだったと判明していくのです。この時点で、小倶那はこの日本(豊葦原)で誰よりも「濃い」光の氏族=神の血筋であるということになります。

 

 

 

と、言う感じで、前回の空色勾玉の時代よりもずっと「神」成分が薄くなった「神の末裔」がここに登場します。

 

 

 

そのせいか、ここに描かれる「大王」や「皇子」は、とても欠陥のある「人間」として描かれている気がします。激情家だったり、生きる目的を見失っていたり。

 

 このあたりで、「日本の『神』は『神』であることを否定して初めて成り立つのではないか」…と思わせる表現が色濃くなっている気がします。

 

 

 そもそも日本人の指す「神」とは、すぐれた人間や少し大きな力を持った畏怖の対象、を指しているからだと思います。だから大王や百襲姫も、その子どもである皇子や小具那も、「神」もしくは「神の末裔」として扱われますが、みな人間らしい欠けを持っていると言いますか。

 

 

そもそも一神教の指している「神」(GOD)は固有名詞のようなもので、その言葉を使って両者を同じような扱いにしてしまったのは今も続いている不幸である気がします。

 

 

私のような、自分で自分の実存を支えることができない人間には、「なにか優れた畏怖の存在を、自分の感性で悟ること」は難しいのでしょうね。

 

 

 だからか、空色勾玉・白鳥異伝に描かれる神々の姿から魂の充実のようなものを感じるのは難しく、どうしても「これは自分とは関係のない物語だ、だったら日本の神々も自分と個人的な関係はないんじゃないか」と思ったのです。

 

 

■ 薄紅天女のヒロインに感情移入できる理由(ネタバレあるよ!)

 

上記2作のヒロインはもちろん、ヒーローにも私は「感情移入」はできません。唯一、この3部作のなかで一番感情移入ができたのが「薄紅天女」の苑上(鈴鹿丸)でした。だから私は、薄紅天女を一番好きになったんだと思います。

 

 

どうして感情移入できなかったのか。

 

 

それは多分「結局この物語は血筋で選ばれたものが重い使命とかと葛藤してる」という、最近のジャンプの傾向に対するモヤモヤよろしいものがあったからないほかならなりません。

 

 

選ばれなかったものの苦悩は、選ばれたものにはわかるまい、という感じです。さながら、空色勾玉で狭也に襲いかかった巫女ポジションの考え方なのです。

 

でも、彼女が救われないような物語ならば、それは私に必要な物語ではないのです。

 

 

「特別な力・特別な血筋」、そこから生まれる使命や葛藤に苦しんでいる主人公たち、という構図がこの物語のメインストリームです。

 

この「薄紅天女」のヒロインである苑上(鈴鹿丸)は、「天皇の娘と言う特別な血筋に生まれたにもかかわらず凡庸」だったからこそ、比較的私が感情移入しやすかったのかもしれません。

 

 

だれからも必要とされない空虚感。それが彼女を行動に走らせ、結果、阿高と出会う。

 

 

紅天女の主人公・阿高は阿高で、うっすら神の子孫なのですが、荻原先生自身も言っているようにこの「薄紅天女」の「勾玉の必要性・神の血筋の必要性」は後付設定くらいのもので、メインではありません。

 

 

阿高は平穏な生活を望みますが、自分の持つ「力」によってその平穏が壊されてしまう、というところから物語ははじまります。彼の「戦う」動機は、物語の終盤になっても変わることはなく「日本の平和とかどうでもよくて、自分にとって平穏な生活を取り戻す、そのために戦う」という事が、一貫した阿高の願いとして描かれます。

 

ここまで読んでいて、もしかしたら 「日本の神々に焦点を当てたとはいえ、あくまでファンタジーでしょ?そこに救いを求めるのなんておかしくない?」と思う人もいるかもしれません。

 

 

私も確かにそう思うのですが、それでも、この物語は実に本質的に「日本の神」というものに迫っているように思えるのです。たぶんそのあたりは

 

この本を読むとなんとなくわかっていただけるのではないかと思います。私も、詳しい箇所を引用したいのだが、人に貸したままもどってこないので赦してほしいです。 

 

勾玉三部作に対して言及したこんなブログもありました。

 

 

 天皇に対して断罪も批判もせず、哀れみを感じ、そのまま受け入れる作品世界に、日本人が敗戦後も本質的に変化していないことを読み取ることも可能だ。また、坂上田村麻呂に「…だが、国の兵力を東北に導入すること自体は、それほど悪いことではない。人手があれば、開墾もできるからな。」(『薄紅天女』)と言わせているが、こうした、中央集権国家による歴史観楽天的に肯定する文学作品に対して、東北出身のせいか、ひどく違和感を持ってしまう。


 荻原規子勾玉三部作は、作者が限定した「読む女の子」読者に対してのシグナルであるとしても、「児童文学」という枠で発表された場合、大人としての倫理・生死観を問われる場におかれがちだ。勾玉三部作が国の王が神の子孫であることを基盤として成立している作品である限り、全くの手放しで作品を肯定することはできない。


 荻原規子勾玉三部作の後、『西の善き魔女』シリーズを架空の「王国」を舞台にし、現実と物語の歴史・王権・政治とを明確に分離させた。そして、「児童文学」という枠を離れ、作者と趣味の一致した「読む女の子たち」に向けたものであることを明確にして、彼女たちの王国を築いている。それは、どこか女子校に独特な雰囲気にも似て、どんなに読者たちが「アブナさ」にときめいたとしても、荒々しい性の暴力や、大人の男女の歪んだ欲望からは守られた範囲の、華やかで汚れのない、少女が主体的に活躍する物語空間を形成している。

 

(『これは「女の子」の王国 荻原規子勾玉三部作をどう読むか』より引用)

 

ということで、私もご多分もれずこういうシリアスな立ち位置に「勾玉三部作」を置いている1人です。

 

 

とにかく、「日本の神」とは、むしろ「コレが神と言い切れなくてこそ神」みたいなところがあります。多くの人は「自然現象とか、人間には計り知れない大いなる力に人間が名前を付けたものなんでしょ」くらいにしか考えていないかもしれません。

 

それの何が問題だったのか。何度も言いますが、それには「私個人の救いがない」ことが問題だったのです。 

 

■ 日本の神々と、聖書の神との違い

 

ここまで書いていて、私はあることに気づきました。日本の神について語るには「神々」のことそのものを語るしかないからこそこの物語が生まれたのではないかと。

 

 

そこに「人間」の姿はありません。いや、むしろ、古事記風土記に描かれている《日本の神々》なるものはは恐ろしいほど不出来で、救いようがないくらい「人間」です。

 

 

では、対して聖書はどうなのでしょうか。

 

聖書は、「神のわざ」と「人間の営み」について描かれていますが、あくまでその区分は明確です。被造物が創造主を超えることはできない。一貫してそのテーマは変わりません。

 

日本の神と、聖書の神の違い。誤解を恐れずにあえてハッキリと書きます。 

 

「日本神話に出てくる”神”は、人間を救わない」

 「聖書の”神”はあくまで人間を救おうとする」

「だから私は、クリスチャンを選んだ」

 

(補足:改めて読み返してみると独善的な言い方でゴメンなさい…!そのスキマ埋めるものを数年かけて一生懸命言語化してみたのでよければ読んでみてください…)

itukami.lampmate.jp

 

少なくとも、日本の神々というものは、私の孤独、私の等身大の苦しみを救ってくれるものではありませんでした。

 

 

私は、古事記風土記を読んで、日本人なら八百万の神だ、と思い意気込んで、日常のありとあらゆるものに「私の救い」を求めた時期がありました。

 

 

でも、一向につかめなかったのです。それはもしかしたら「自分が至らないから」、もしくは神道の基礎的な考え方である「『穢れ』なるものが自分に憑いていてそれが祓えてないから」…だから至れないのではないか…そんなことを考えていました。

 

 

 

 そのうちに聖書に出会って、そこに描かれている神があまりにも「何もできないクズのような存在」にも心を砕いているのを知り、私は自分の空虚があまりに自然に埋められてしまったのです。

 

聖書の神は「人間が理解できない自然現象に名前をつけたもの」ではありませんでした。日本人的な感覚からすると、「人間に心を砕く神」というのが独善的に感じるのもわかります。

 

けれど私はそれがなければ生きられなかった。

 

  

古事記を通して、そこに自分のアイデンティティや生きる意味を見出そうとした私だから、言えることがあると思っています。

 

 

勾玉三部作は大好きです。

 

 

そこに映し出している神像が「日本の伝統」としては精緻であることを認めます。勾玉三部作はファンタジーですが、すぐれたファンタジーは時にリアリズム小説よりも鋭く現実を写し取ります。空色勾玉もその機能を十分果たしている文学だと感じます。

 

 

けれど、だからこそ。もし、これを読んでいる人のなかに言いようのない空虚、感覚を持っている人がいたら。

 

 

あなたのその空虚を、言い尽くせぬ色で埋めることはできるかもしれない、その可能性を少しだけ知っておいてくれませんか。 

 

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