クリスチャンは皆がみんな伝道者ではない?岸義紘著「だれでもできる証し伝道」
こんにちは、かすがです。
以前このブログでも触れました、
クリスチャンの「証し本」は「個人ブログ」で代替できるのでは、という話しに続いて。今日は「証し伝道」についてお話ししたいなと思いました。
というのも、先日こういう本を主人が教会で見つけてきたところから始まります。わかりやすくて興味深かったテーマだったせいか、主人が自分でも購入しなおしていました。私も読ませてもらったところ、ひとつ目からウロコが落ちることがあったため、今こうしてPCをカタカタ叩いています。
その本のタイトルは、「だれでもできる証し伝道」(岸義紘著)。
もう絶版になっているので、読んでみたい方は古本屋かヤフオクでお探しください。
こんなページにくる方はそもそもクリスチャンだと思うので、「証し」に関する説明も「伝道」に関する説明も省きます。
(※一応お断りしておきますが、キリスト教に関する話題です。私のプロフィールはこちらからどうぞ ↓ ↓)
目からウロコがおちたこと。それは、
「クリスチャンは皆個人伝道者でしょうか?」
と言う問いに対する著者の答えでした。この本の著者である岸義紘 先生は、ある答えを明確に出しています。そのことに関して、思うところがあったので、今日はそのお話をしたいと思っています。
■ クリスチャンはみな個人伝道者でしょうか?
この問いに関して、岸義紘先生はハッキリ「NO」と言っています。引用します。
すべてのクリスチャンはいわゆる伝道者ではありません。まさか、そんな。驚かないでください。疑わないでください。それは本当です。すべてのクリスチャンは、個人伝道者ではありません。これは実に聖書的です。宗教改革の主張原理の1つ、万人祭司説から普遍的に生きるなら、クリスチャンはみな祭司であり説教者であり預言者ですとも言えるでしょう。そして世界宣教と言うかけがえのない任務のゆえに、特に伝道が強調されて、すべてのクリスチャンは伝道者です、と言われてきました。その通りです。しかし教会の使命は単に伝道だけではありませんから、それだけを強調してすべてのクリスチャンは、しかも個人伝道者ですと言うと教会形成において無理が生じてくるのではないでしょうか。
ここで「違う、そんなことはない」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。もう少し詳しく、 岸義紘先生の主張を引用します。
しかし神がすべてのクリスチャンに対して同じように求めておられる伝道があります。それはキリストの救いの体験を伝える証です。証し伝道こそ神があなたに求めておられる伝道です。この意味ではすべてのクリスチャンは証し伝道者です。
つまり岸先生は、ここで【伝道】というものにカテゴリを設け、「証し伝道」と「個人伝道」というものを非常に注意深く「別のものとして扱う」必要性を書かれているのです。
これは、私もうすうす感じていて、でもうまく言葉にできなかったことでした。
こんなことがあります。
以前私は、SNSで知り合った姉妹に、自分が「機会を得て人に神さまのことを伝えていること」や、「ブログを使って証しを書いており、それを伝道にからませている」と伝えたことがありました。
その時の会話の内容を思い出すと、明らかに、姉妹と私の間には「伝道」と言うものに対する認識の違いがありました。
(うまく話せなかったので姉妹の考えはわかりませんが、姉妹は「伝道は召命があってすることのひとつだと牧師先生に教わった」といおっしゃっていました。つまり、その姉妹のなかでは「クリスチャンのなかでも伝道する人・しない人という役割が分担されている」と認識していようでした。)
姉妹は、おそらく「伝道」=「個人伝道」のことを連想したのだと思います。私はというと、自分のしていることはここで言う「証し伝道」をしているし、これには自分の経験さえあれば足りる、と考えているスタンスでした。
では、「証し伝道」と「個人伝道」、この二つはどういう風に違うのでしょうか?
■ 証し伝道と個人伝道の違い
クリスチャンは皆、個人伝道者ではありません。したがって、すべてのクリスチャンが神、罪、救い、信仰について個人伝道をし、入心の決断を相手に求める、というようなかたちでの伝道をしなければならないのではありません。
すべてのクリスチャンは、例外なくキリストの証人です。これはまったくの無差別です。ただ1人のクリスチャンといえども、キリストの証人であることから逃げることができません。したがってすべてのクリスチャンは伝道者である、と言う時、それはいわゆる個人伝道を指すのではなく、証し伝道こそ、その意味するところであるはずなのです。
「話した相手が、『キリストを信じるとそんなことが起こるかなぁ』と思うならそれで証は大成功」と 岸義紘 先生は考えているようです。
逆に相手がそれを聞いてあなたをバカにしてもからかっても疑ってもそんなことあなたの責任ではありません。
しかし個人伝道者の責任は、やはり喋りっぱなしで終わらせることではなく、悔い改めとまで導くことまで含んでいます。
なお、岸義紘 先生は、「この2つの区分は非常に難しいし完全に分離できるものではないが、一応この2つの区別が日本には必要ではないか』というスタンスで書かれているようでした。
「一応の区分」についての図もあったので挿入します。
■ 現代においてはどういうカタチでできるのか
繰り返し読んでくださっている方の中では、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、私のこのブログは、いくつかのカテゴリーに分けて書かれています。
もっともざっくりと分けるとしたら、それは、クリスチャンじゃない方とクリスチャンの方、です。
クリスチャンの方に向けては、単に私が楽しいから書いているだけの記事が多いです。読んだ本であったり、教会の先生から聞いたり姉妹から教えてもらったりした事です。
ですが、それとは別にもう一つ私が狙っているターゲットがあります。それは、「依存について」と言うカテゴリの記事を書くときです。
私は、このカテゴリ記事を書くとき、ある仕組みにそって書いています。(といっても、まだそれ自体実験中ですが)ですが、やっていることはただの証しです。
(ただ、実際はメルマガに登録しないとどういうカタチでやってるのかは見えません・・・。気になる方は、すみませんが登録してみてください・・・)
メルマガという媒体を介しているので、多少教理の話しも含めていますが、それでも私の着地点は、読んでくれた人を「聖書とつなげる」「教会とつなげる」というところに設定しています。
あくまで種まき、というところから出ていません。
私は、自分がブログやメルマガの書き方をある程度知っていたので、「証しを自分が書く」というところになんの違和感も持ちませんでしたし、それは「伝道」に入ることだと思っていましたし、それを「召命がなければやるべきではない」という考えには賛同しかねると思っていました。
私も、主人のお母様から、手紙形式(といっても、PCで打ってそれを印刷したものですが)の証しを渡してもらったことがあります。「これを作っておくといいよ」とも勧められました。岸先生も、同じように「証しを書いておく」ということを勧められています。
ですから、私はその「手紙」の部分を「ブログやそのほかのデジタル形式で残しておいて、インターネットの海に放り投げておく」というカタチに変更して実践しています。
もちろん、不特定多数の人に読んでもらえるように工夫もしていますが、一番のメリットはここでお話ししたように「少し話した人に、もっと詳しい話を伝えるためにURLを教えればいい」というメリットがあるためです。
「お手紙を渡す」のと感覚は一緒です。
(以前、自分の仕事でお手紙形式のDMを出したことがありますが、出した方に「手紙はかさばるので、デジタル形式にしてもらえるとうれしいです」と言われました。確かに、自分の生活環境を見渡してみても、下手に手紙などわたされると「かさばるし捨てられないし迷惑だな」と思う時があります。相手のことを考えた時に、『相手の生活に即した媒体で提供する』というのは間違ったことではないと思います)
ただ、岸先生が提唱していることと、私が実践していることでは、多少の違いがあります。
それは、インターネットという媒体の特性の部分の話しです。
私がやっていることは、あくまでインターネットとスマホの普及という背景のうえになりたっていることです。
時間が許せば、私が「どういう構成で」「どういう考えを持って」実際この記事とメルマガを作っているかというお話しも詳しくしたいですが・・・。
世の中にはもっと多様な「クリスチャンになった経緯」を持っているひとがいらっしゃることを知っています。どの道にも、恐ろしく深い神さまの恵みが働いていると思います。
もし興味があれば、オリジナルの証し伝道をされてはいかがでしょうか。
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