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クリスチャンの結婚「具体的な条件で祈ったほうがいい」のは本当か

こんにちは、かすがです。四国の片隅の小さな寺で生まれ育ってなんやかんやでクリスチャンになったアラサーです。既婚。


最近、周りが結婚ラッシュです。自身も結婚しましたし、そういうこともあってか「クリスチャンと結婚」みたいなテーマの話しがたくさん耳に入ってくるようになりました。

そんななかでよく耳にしたある言葉についてギモンに思ったことがあるので、今日はそのお話をします。

 

 

■「具体的に祈ったらその通りの人が現れるよ」説ホンマ?

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クリスチャンとして教会生活を2年以上続けている20代以上の人であれば、どこかしらでこういうセリフを聞いたことがあるかと思います。(福音派だけかな?)


「結婚したいと思うなら、相手のイメージを具体的に書き出して祈ったらいいよ」

 

というセリフ。

 

私は数名から複数回にわたって聞いたので、この先私に結婚の相談を持ちかけてくるクリスチャンがいたら、まずはそれを勧めると思います。

 

でも、私はこれが「すべての人に適応される」とは思っていません。なぜならば、私自身が具体的に祈ったわけでもなく、毎日祈っていたわけでもないからです。


■  私は具体的に祈らなかった

私は主人と出会うまで「結婚したいから相手を与えてください」みたいに祈ったことはありませんでしたし、ましてや「結婚相手はこんな人がいいな」という具体的なところまでは祈りませんでした。

 


「結婚できたらしたい気もするけど、でも『したいしたい』って言ってるのもなんか自己中心なかんじがするし、しかも私人の好き嫌い激しいし、結婚って相手あってのことだし、まして今まで人に好きになってもらったことないのにいきなり結婚なんかできるわけないじゃんか」みたいなことを考えていた気がします。

 

ですが、

 

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 (マタイによる福音書/ 06章 33節)』

 

という言葉もまた信じていたので、「私が神に従いたいと思い続ける限りは、神は必要なモノ・コト・ヒトを与えてくれるはず。私の想いではなくて、神の御心がなりますように……」的な想いはずっと持ち続けていました。

 


ただ、一回だけ、「結婚したい相手の条件」として具体例を挙げたことがあります。23歳のころの手帳に走り書きを残しました(書いて忘れていたのが実際ですが)。そこには「神さま、私が両手を広げて愛せる人を与えてください」ということが書かれていました。

 

……あれ?全然具体的じゃないぞ?

 

でも、自分的には具体的なつもりなんです。だってこの「両手を広げて愛せる人」というのは「両手を広げて愛せる(後ろ暗いことなく、私と価値観を共有できて、『死を想う』っていうことを知っていて、心になんのわだかまりもなく『愛している』と公言してはばからない)人であることは神さまはごぞんじのはずですし、その他私が言語化できていない諸条件もあなたはきっとご存知のことと思いますし、そういう人がいいのかどうかは私には測れませんのであなたのチョイスで基本的にオッケーだと思ってますし、むしろそういう心持ちになれるようにしてください。とにかくどのみち私の手には余るのであなたの御心がなりますように」という長い長い注釈が前に後ろにつくのですから。

 


「クリスチャンであるかないのか」というところも、具体的に望まないようにしていました。それもまた、私の望みで限定するべきではない事がらのように思えましたし、「『死を想う』ということを知っている人ならたとえ今クリスチャンでなくてもそのうちしかるべきところにたどりつくだろう」と思っていたからです。

 


……で、結果的に私は『両親がクリスチャンの生まれ育ってイエスがキリストである的価値観は教育の中にもりこまれていたけど神さまというものをイマイチ信じ切れてなくて逃げ続けていた青年』と出会い、その道中に二人とも洗礼を受け、それから結婚することとなったのですが。

 

■ 私はヘンクツだったからこれで大丈夫だったのかな

おそらくこれが功を奏した(?)のは、私にとって大事にしたいことが「『死を想う』ということを知っている人」という部分に集約されているからなんだと思います。

 

私は偏屈なので、たとえどれほど仕事が安定していてもイケメンでも、そういった「価値観」の部分がある程度共有できない人と数時間以上生活するのはムリです。

 

(これもゲンミツに言うと「『死を想う』ことを知っていると私が感じられる人」であるので、言語化すればもっと細かい諸条件のもと成り立っているんだとは思いますが)

 

だから、そもそも私が「『価値観を大事にしたい』という価値観」を持っているだけだから、こういうざっくりとした望み方になったんだと思います。

 

もう一つ言うならば、私は「細かいことを考えるのが超苦手」な性格です。だからもし、当時から「結婚したいなら細かい条件のもと祈る」ということを知っていたら、それができない自分に自己嫌悪などしていたかもしれません。

 

ですが、実際「細かい条件のもと祈れない」からといって、人を無条件に結婚から遠ざけるか?というと絶対そんなことはないと思います。向き不向きがある、ということは覚えておくべきかと思います。

 

ですが、「具体的に祈ること」が理にかなった行動であることもまた、事実だと思います。

 

 ■「具体的に祈る」ことのメリット


まず、「自分が何を欲しているかを認識するのは超大事」だと思います。冒頭でもお話しましたが、私は自分が「結婚」というワードが気になりだしたとたん、身の回りに「結婚」の話題が増えたように感じました。

 

これはいわゆる「引き寄せの法則」的なものだと思うのですが、それはスピリチュアルなものと言うよりは「自分がそれにむかってアンテナを立ててるからよく拾う」というだけの話しだと思うのです。

 


みなさんもありませんか?「バイト先を花屋にしようと思ったら急に街中の花屋情報が目に入ってくるようになった」とか「ルンバが欲しいと思ったら気づけば掃除機に関して詳しくなってた」とか。

 

そして「自分にとって大事な諸条件」というのもまた、人それぞれ違います。私が「死を想うことを知っている人」というのは、そもそも「『価値観が共有できることが大事』という価値観」であります。

 

人によってはそういう内面的なことよりも、外見や生活力が自分に合っていることの方が大事な方もいらっしゃると思います。

 

また、たとえ内面的なことでも「優しい人」という形容詞だけだと具体的なようで曖昧だと思います。

 

私は「優しさ」の話になると、昔の悪友が言っていたこんなことを思い出します。 

 

f:id:kasuga-2-19-1-100110:20160922183559j:plain「あたしゃイニシャルDの高橋兄が好きで高橋(兄)の同人誌よく読むけど、『アタシだけに優しくて他の女に対しては鬼畜な態度をとる高橋兄ステキ♡』みたいな設定が多すなんだよ!!!あたしが欲しい優しさってのは『あたしのことよりも道で困ってるお年寄りを助けことを優先しちゃう』的なヤツなんだYO!!」

 

……と。

(参考画像:イニシャルD高橋(兄))

 

こんな感じで、「優しい人」という表現でも人によってはまったく違うことを指しているケースは珍しくないと思うのです。ですから、「自分にとっての譲れないもの」を「自分のアタマで考える」ことは、「それに対するアンテナを張り巡らせて入ってくる情報の精度を上げる」ことにつながる、だから具体的に祈ることは大事ーーーという話しなのでしょう。(少なくとも私はそう思っている)

 

■ まず第一に神の国とその義を求めれば与えられるのか?

私が主人と最初に出会ったのは、大雪で停車を余儀なくされた夜行バスのなかだったのですが、こんな状況で声をかけたのには理由があります。

 

それは、私が「神の御心にかなったことをしたいな」と思っていたことと、それが「隣人愛の実践者となること」だと考えていたことと関係しています。

 

有り体にいうと

 

f:id:kasuga-2-19-1-100110:20160124154849p:plain「仲良くなってイイ印象をいだいてもらって、もしかなうならばちょっとキリスト教のはなしとかしてみようかな~」

 

みたいなシタゴコロがあったわけです。(クリスチャンじゃない人からみればクズみたいな動機だと思う)

 

そんな想いがあったからこそ、そんな状況でおとなりさんに話しかけることができました。(まさか向こうが自分より聖書に慣れ親しんだ人生を送っている人種だとは思ってもいませんでしたが)

 


ですが、なにもこれは「偶然」という言葉で片付けられるものでもないと思うのです。私はこの当時、老若男女問わず100名くらいの人と「何かしらの出会い」を果たすような生活をしていました。(一年半程度の期間で)

 

 

目的は、先ほど書いたシタゴコロによる動機がほとんどです。1人の人に固執してしますと不健全な宗教勧誘になりそうと感じていたので「とりあえず出会いを増やしていけば、そのうち何人かは私のことを信頼してくれてなにかしら深い話しができるタイミングも生まれてくるだろう」と思いつつのことでした。

 

(人と会う動機が「宗教の話をする」ことが大目的なんて人のアタマおかしいと思う方もいらっしゃるかもしれませんね。その辺は肯定しませんが否定もしません)

 

 

もちろんこれができたのは、私の努力とか才能とか言う気は毛頭ないです。苦痛だったわけでもなく、なにか特別な努力をしたわけでもなくあくまで自然とこういうことができました。

 

その過程で主人と出会ったためか、これら一連の出来事が私の中で「神の恵み意外のナニモノでもない」と思えています。


■ 愛することは技術である

私が《結婚そのもの》を決意をした理由もまた、「愛することは技術である(byエーリッヒ・フロム)」というミもフタもない考え方を採用したからです。

  

kasuga-1221.hatenablog.com

 

↑の記事でも書いたのですが、教会でうらやましいと思っていた先輩夫婦の奥様も

 

『この人とならどんな苦難でも耐えれる』と思うのであれば、いいと思うわ。

 

とおっしゃっていたことに納得したように、「この人といればラクができる」という感情で結婚するとなにか変化があった時のよりどころがあまりにも脆弱だという考えがある程度私の中に組み込まれてたのだと思います。

 


また、「健全な信仰をどう育てるか」でも言及されていたことですが、「結婚というものを『神が必ず導いてくれるから自分たちは努力しなくても大丈夫』というブラックホールに放り込んだとしたら、それは『不健全なモノ』になってしまう」というところに納得する思想も持ち合わせていました。

 

kasuga-1221.hatenablog.com

 


知性と思いを尽くして主に使えることを神は望まれ、かつ「主に使えるように夫に仕えよ」ということも聖書に書かれているわけだから、「愛することは技術である」と最初からある程度割り切ってしまったほうが長い目で見たときラクなのでは。

 

技術であるならば、「やりながら自分に適した方法を模索していく」ということが自然と付随してくるわけで、そうなってくると「ある程度考えたらあとは飛び込んでみる」ことが不可欠になってくるのでは。

 

ですがそこはクリスチャンなので、「自分の力」のみで努力しようとするドツボにはまらないため「そうしたいという動機すら神に与えてもらえるように祈ること、それが実際に行動できるかどうかというところにも聖霊に働いていただくよう祈ること」というような祈りと二人三脚でくことが大事なのでは。

 

 

……なんかごちゃごちゃ書きましたが、要するに「信じて踏みだしたらあとは何とかしちゃるわ、と聖書は言ってる」ような気がしたということだと思います。

 

 

旧約聖書にも、イスラエルの民は「川が割れたからヨルダン川に足を踏み入れた」のではなくて「神を信じて一歩踏み入れたからその信仰により神はヨルダン川を割った」みたいなことが読み取れる記述があります。私の教会の牧師は「祈りと行動は二人三脚」だとよく言っていますが、そういう文脈から読み取れることなのでしょう)

 

 


■ 結論

 「結婚を望むなら、具体的な条件で祈った方がいいの?」に関しては「わからん、ケースバイケースだと思う」という何の役にも立たない回答しかできないというところに着地してしまいました。

 


しかしながら、たとえ「そーゆー細かいこと考えるのって自分には向いてないのよね」と思われる方でも1回くらい細かく考え抜いてもいいんでないでしょうか。やってみないと「向いてるのか向いてないのか」とかもわからないと思うんですよね。

 

 あと、価値観や好みは「年齢や状況によって変化する」ということもまた念頭に置いておく必要があると思います。でないと、自分が一度挙げた条件に振り回されることになりかねませんので。

 

クリスチャン夫婦の関係は、結局は「神と自分の関係」だと表現している人もいらっしゃいましたが、私もその通りだと思います。

 

またゼクシイのCMにもありましたが、現代は「結婚してもしなくても、幸せに生きられる時代」であると思います。どのように行動したとしても、神はその動機を見てくださるし、その人に一番ふさわしいギフトをふさわしい時に与えてくださるということを、私は信じます。

 

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