【聖書とは愚かな人々の記録である】曽野綾子入門本に。求道中の方でもおススメ
曽野綾子、という作家さんの名前は有名かもしれない。でも、本を読まずして育った人には、どんなに有名な作家さんであろうが関係ないと思う。
私も、同じである。名前くらいは聞いたことがあるけれど、著書を読んだことがあるかというと、そうでもなかった。
ただ、書店に行って膨大な本棚から「なにか一冊だけ選ぼう」と思った時に、「なんか名前きいたことある」「この薄さ」「このくらいの文字量」であれば読めるかもしれない、と思い、購入したのだった。
「聖書」は、説教集ではない。神々しい人々のお話というより、どこにでもいるちょっと愚かしい人々が登場する物語である。そういう人々にこそ神は、愛を持って接している。だから聖書の言葉は、いつ読んでも色あせることがない。
聖書とは、キリストと言う道学者の説教集だという考え方が世間にあっても、私は少しも反対しない。
しかし、そういう多くの人たちは、聖書を読んだことがないのである。
冒頭のこの言葉に共感した。聖書は、きれいごとや道徳が並べられた説教集ではない、にもかかわらず、日本では「読まずして」そう認識している人が多い。
読んでいて気づいた。これは、たくさんある「曽野綾子」の著書の、入門書になるのではないだろうか。
聖書のなかの「ただの説教集」ではない部分を切り出して、そこに該当する曽野さんの今までの著書の言葉が引用されている。
私が、一番印象に残っている部分をハイライトするなら、62ページ、「コヘレトの言葉」への言及である。
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。(コヘレトの言葉(伝道の書))3章1~8節
◇否妻のように心を打つ言葉
昔この箇所を初めて読んだとき、感動が稲津真野ように心を走ったことだけはよく記憶している。
なによりも、この短い文章が、人間というものをいかに寛大であたたかくとらえているかがわかって、私は嬉しかったのである。(『生活のただ中の神』)
こういったぐあいに。
リズミカルに、「聖書がただのお説教集」ではないと感じられる部分を中心に書かれている。
そのせいか、この本は私が『人に聖句を届けよう』と思う時に開ける本になった。
求道中、およびクリスチャン1年生くらいの人にはおススメである。