存在に耐えられない軽さだとは思わない

この世の旅路は果てしない。「主よみもとに近づかん」が好き。

そういう「愛」に対してどう接していいかわからない。一生私にはわからないのかもしれない。

なぜ「愛する」という言葉への解釈がこんなにもちがうのだろうか、私たち人間は。そんなことを思う。

 

ある人がSNSに書いていた「自分には『愛』があるつもりなんだけれど」という言葉を見てしまった。

 

この人と私は数年前色々なSNSで繋がり、毎日のように互いのつぶやきをみていた。 私は今からその人の「悪口」のようなものを書く。

 

仮にこれを読んだ人が誤解して「自分のことかも」と思わないために、私とその人の関係性を書いておく。

 

彼女は私より年上。

彼女はキリスト教徒。

彼女と私は3種類のSNSで繋がった。

私は彼女と通話したこともある。

 

一応今は目に入れないようにしているのだけれど、他のフォロワーがコメントしたりしていて折に触れて目に入ってしまうことがある。

 

彼女のタイムラインを見た私がいつも思うのは、「神は奥が深すぎる」という、絶望と感嘆とが入り混じった感情だ。

 

彼女はクリスチャンなのだ。「信じるのみでその救いを受けられる」という、私の信じている神と同じ神を信じているクリスチャンなのだ。

 

 

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彼女の何に私が納得できないのかという点なのだが、有り体に言うと「おせっかい」の縛りが強い、ということになるのかもしれない。

 

そしてそれは彼女にとって「まぎれもない善」らしい。 彼女の「おせっかいの縛り」が強いと感じた出来事はいくつかある。

 

機嫌よくからんでいた人の返信が遅くなると「誰か連絡をとってないか、とても心配だ」と言っていた。心配していた相手は飲み会だと言い残していたので、心配していた相手がSNSには返ってこないと思っていた私との感覚の違いに驚いてしまった。

 

多少過保護な母親のような感覚、なのだと思った。おそらく「自分が把握していないと落ち着かない」タイプなのだろう、くらいには思った。

 

あとは、落ち込んでいる人がいたらすかさず「聖書の言葉」を伝えてきたり「イエス様ならどうすると思う?」というような問いかけをしてくるような人間でもあった(一応断っておくが、投げかける相手はクリスチャンである)。

 

想像してもらえればわかると思うが、落ち込んでいる人間に対してすぐさま「こうしたらいいよ」みたいなアドバイスをすると誰でも辟易する。

 

「イエス様ならどうすると思う?」というのは厳密に言うとアドバイスではないが、日常的に「落ち込んでいる時の聖書の言葉」を伝えてくるような人からの「イエス様ならどうすると思う?」は、御察しの通りの「圧」を感じる。

 

そういうのをよくやっていた。 彼女のその行動に怒りを覚えた人間を何人か知っている。私が知っているだけでも6人くらいいるはずだ。中には直接止めようとした人間もいる(私もその一人にないるのかもしれない)。

 

そしてそれは彼女の価値観と行動に変化をもたらすことはなく、数年経った今、むしろ「自分の『愛』が伝わらないのは相手の心が頑なだから」や「年齢が違いすぎるから」や「悪魔が席巻しているから」という思想をなお強固なものにしたようにも見受けられる。 彼女は決して、自分の言葉良いようにとってもらえないのは『自分の伝え方や相手との関係性に改善の余地がある』とは思い至らないらしい。

 

 

私は、かなり強めに「愛は技術だ」という思想を持っている。技術を学ぶ、身に着ける、使う、といったことの原動力は勝手に湧いて出ないから、そういったことの源泉を与えてくれるのが「知恵を尽くして心を尽くして想いを尽くす」(順番間違ってるかも)ことを良しとする私たちの神の「愛」だと思っている。

 

人の心なんて結局他人にはわからないから多少至らないところは目をつぶりあって生きるのは前提であるが、改善できる点は改善していく「知識」「技術」の面も多分にあると思う。 例えば、人と円滑に話しをするためにもいろんな技術がある。

 

相手の行動を真似する「ミラーリング」、

相手の使った言葉を使って会話する「ミミッキング」、

相手のトーンより「少しだけ高いトーン」で話をすること、

初対面の相手と素早く打ち解けるためには「物事の考え方の話し」をすること、

などなど。

 

 

これらは悪用しようと思えばできる面もあるが、基本的には「相手に好感を持ってもらい円滑にコミュニケーションをとるため」の技術だ。定番でいうところでもこれくらいのことについて改善できるわけで、「相手が自分のいうことを聞いてくれない」ことが嫌ならばこういったことを試したほうが建設的なのではないか、などと私なぞは思う。

 

 

彼女の行動に苦しみを覚えた人を知っている。私自身もそうだ。彼女と会話をして納得できなかったことを思い出しては何度もなんども歯を食いしばった。

 

 

しかし、そんなことを考えれば考えるほど、同時に 「神の奥深さ」のようなものを思わざるを得ない。

 

彼女はクリスチャンだ。私の信じる神と同じ神を慕っているクリスチャンだ。彼女の「愛」の表現方法が私に理解できなかったとしても、それはそれなのだ。

 

現に彼女は、今も元気にその価値観のまま生きている。それについていけなかった人とは棲み分けて生きている。 それが現状私の目に好く映らなかったとしても、それを私が何か判断したり評価したりする権利は持っていない。(好き嫌いを言う権利はあるとは思っている)

 

聖書を読んでいくと、人間の目によく見えることも悪く見えることも、全ては神さまの計画に編み込まれていくのだということを知り、その深さに心震える。