私が葬儀の仕事をしながら考えていたこと~遠藤周作、沈黙~
「合掌、礼拝(がっしょう、らいはい)」
司会の声が響き渡ると同時に、住職が何とも言えないタイミングで鐘を鳴らす。それと同時に、皆が祭壇に向かって手を合わせてお辞儀をする。
もちろん、スタッフもだ。お客さまから見えていない炊事場にいるスタッフもするように指導された。
このとき、いつも私の脳裏には遠藤周作の「沈黙」の一節が思い浮かんでいた。
『踏むがいいい、踏むがいい。お前のようなものに踏まれるため、私はいるのだ』
キリシタン弾圧の歴史における神への信仰がテーマになっているこの作品。
迫害に耐えてきた宣教師が、最後に踏み絵を踏む「裏切り」のシーン。
『踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。』
『踏むがいい。』
『踏むがいい。』
礼拝する気持ちなどないから、気持ちがないから大丈夫だ。
最初はそう思っていた。
でも、だんだんと私のなかの信仰が崩れていくにつれて、「どうでもいい」気持ちと「したくない気持ち」がせめぎ合うようになっていた。
「わかってこの会社入ってきたんちゃうん。仕事やしなほら、せなな。」
センパイに言われた言葉が痛い。
入社する前は、「自分は大丈夫」だと思っていた。
拝んでも大丈夫、心がないから。
拝まないこともできる。
会社で干されたって、死ぬわけじゃない。
でも、現実の私はもっと弱かった。職場での孤立や陰口が怖くなって、いつしか周りに合わせるようになっていた。
その気持ちが強くなればなるほど、私の中で「大事なモノ」が崩れていく感じがした。
『踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。』
だったらどうして、こんなにも胸が痛いんだろう。たぶんこのときにはもう、私のココロは、戻れないところまで傷んでいたんだと思う。